≪も≫




毛利敬親 <もうり たかちか>(1819-1871)長州藩主

長州藩11代藩主・毛利斉元の第1子として、江戸麻布の長州藩邸で生まれる
1837年、19歳の時に藩主となる
その後、藩財政の改革や文武の振興に尽くす
8月18日の政変によって入京を禁じられる
翌年、禁門の変を起こした罪で官位を削られる
1867年、王政復古がなされると官位を復旧され、後に参議、山口藩知事となる
毛利敬親は、家臣が何事かを上申すると、
どんな提案でも「そうせい」と許可を与えたため「そうせい候」と呼ばれた
1869年に、家督を子に譲って隠居し、間もなく亡くなった
享年53歳




望月亀弥太<もちづき きやた>(1838-1864)土佐藩士

1862年、土佐藩主・山内容堂の護衛のため50人組に加わり上京する
その後、神戸海軍塾に入り、航海術や測量を学ぶ
1864年、神戸海軍塾を脱し、上京する
同志達と討幕の密議を重ねるも、池田屋事件において新選組に襲われ重傷を負い、自刃する
享年26歳




元田永孚<もとだ ながざね>(1818-1891)肥後藩士

藩校・時習館に学び、そこの塾長をしていた横井小楠に師事する
横井小楠と共に実学党を結成する
第一次長州征伐では小倉方面へ出陣し、陣中で西郷隆盛と会談する
第二次長州征伐では出兵を拒み、諸藩の情勢を藩内に伝える
1868年以降は、側用人兼奉行に任じられ、藩内で勤王を説く
翌年には、私塾・五楽園を開く
1870年、大久保利通の推挙を受け、宮内省に出仕する
また、「幼学綱要」や「教育勅語」を作成し、国民教化に尽くす
享年73歳




桃井春蔵<もものい しゅんぞう>(1825-1885)幕臣・幕府遊撃隊

沼津藩士・田中十郎左衛門の次男として生まれ、初めは田中甚助と名乗る
17歳で鏡心明智流の初目録を取得する
その腕を見込まれて桃井家の養子になる
そして、23歳で免許皆伝、25歳で奥伝、28歳で4代目桃井春蔵を襲名する
1863年に講武所剣術教授方、1866年に講武所師範役となる
1862年、将軍上洛にあたり、護衛役として同行し、この時、遊撃隊頭取並となる
徳川慶喜に従って大阪に戻り、1867年に大坂玉造講武所に出仕するもすぐに辞任する
その後、浪華隊の監軍兼剣術師範役を勤める
明治に入ってからは大坂で道場を開く
1885年、コレラにより死亡
享年60歳




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