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椋梨藤太<むくなし とうた>(1805-1865)長州藩士

1805年、萩城下に生まれる
学識を認められ、江戸方の書記官となる
保守派の第一人者・坪井九右衛門の直系として派閥を組み
周布政之助等の革新派と対立し、藩の実権を奪い合う
1864年、長州征伐の動きを知ると、革新派に対して血の粛清を決行する
幕府に恭順の意を示し、征伐の取り止めを願うために
周布政之助を自決させ、家老らを切腹させた
しかし、高杉晋作のクーデターによって失脚し、逃亡するも捕らえられて
1865年、斬首される
享年60歳




陸奥宗光<むつ むねみつ>(1844-1897)紀州藩士・海援隊

紀州和歌山藩の名家・伊達宗広の第6子として生まれ、小二郎と名乗る
10歳の頃、藩内政争に巻き込まれて、伊達家は失脚し、改易処分を受ける
その後、江戸に出て勉学に励み、15歳の時には儒学者の安井息軒や水本成美に学ぶ
1862年、宗広と兄の五郎が紀州を脱藩して京都に入り、
中川宮や姉小路公知らを担ぐ尊王攘夷志士として活動すると
翌年、彼もこの活動に加わり、その時に坂本龍馬と出会う
それ以後、坂本龍馬と行動を共にするようになる
この頃、土佐脱藩浪人と偽り、伊達姓を陸奥に変えて、陽之助と名乗った
海軍操練所が閉鎖された後、龍馬と共に長崎に出て亀山社中を興す手伝いをする
亀山社中ができてからは、商務担当として能力を発揮し、海援隊になってからもそれは変わらなかった
1867年、龍馬暗殺が伝えられると、陸援隊や十津川郷士らと謀って
紀州藩士・三浦休太郎と新選組を天満屋の宴席で強襲する
この天満屋事件の後、陸奥は海援隊を離れる
その後、鳥羽伏見の戦いを経て、新政府に登用される
そして、外国事務局権判事、地租改正局長、元老院議官等を勤める
西南戦争の時には、立志社の陰謀に荷担して服役する
出獄後は、伊藤博文と欧米諸国を訪れ、駐米公使、農商務大臣、枢密顧問官等を歴任する
1894年、領事裁判権の撤廃に成功し、「カミソリ大臣」の異名を取った
享年53歳




村田新八<むらた しんはち>(1836-1877)薩摩藩士

日本最初の英語辞典を編纂した高橋新吉の従兄弟の高橋八郎の子として生まれる
幼少の頃に村田家の養子となる
10歳の頃から西郷隆盛に可愛がられていたという
1862年、寺田屋事件に連座して鬼界ヶ島に流される
1864年、西郷と共に赦免され京に上る
以後はほとんど西郷と共に行動する
1871年、岩倉使節団の一員として洋行する
1874年、帰国と同時に帰郷し、征韓論を唱えていた西郷と共に下野して
西郷の私設学校設立に協力し、砲隊学校を主宰する
西南戦争において、高瀬川決戦で活躍するも
城山において西郷と共に散る
享年41歳




村田経芳<むらた つねよし>(1838-1921)薩摩藩士・高岡隊

射撃の名手として知られる
戊辰戦争が始まると、高岡隊の隊長として
鳥羽伏見、会津、奥羽まで転戦する
1871年、陸軍に入り、歩兵大尉に任命される
その後、欧州に渡り、小銃について学ぶ
帰国後、西南戦争に従軍し、その後、国産の小銃の製作に取り掛かる
1880年、「13年式村田銃」を発明。狙撃銃としては最高レベルのものであった
これ以後も改良が加えられ、第2時大戦の時使用された銃の原型となる
この銃の発明の功績により、少将に昇進する
後に男爵、勅撰議員となる
享年83歳




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