≪な≫




長井雅楽<ながい うた>(1819-1863)長州藩士

1819年、藩主と家系を同じくする長井家に生まれる
長井家は、代々重職に就く者が多く、彼も近侍に取り立てられ
その後、直目付となり、政務役を兼任する
1861年、攘夷派と開国派とを納得させる政策として「航海遠略論」を起草する
これは、日本の防衛のためには艦船を増やし、軍事力と経済力を身につけるべきだといったものだった
この政策は公武合体論とみなされ、幕府には喜ばれたが
藩内の尊攘派から命を狙われ、朝廷から嫌われることとなった
1862年、失脚させられ、翌1863年、切腹を命じられる
享年45歳




永井尚志<ながい なおむね>(1816-1891)幕臣

三河国奥殿藩主の子として生まれ、旗本・永井能登守の養子となる
長崎海軍伝習所監督と外国奉行を務めるが、安政の大獄で罷免される
1862年、京都町奉行となり、攘夷派と対決する
1867年、若年寄となり、大政奉還上表文の起草をする
鳥羽伏見の戦いにおいて、敗戦で混乱する幕軍を収拾して江戸に退く
江戸城開城後、箱館奉行となり官軍と戦う
五稜郭降伏後、投獄されるが、後に許され元老院大書記官や開拓使御用掛などの職に就く
享年76歳




長岡謙吉<ながおか けんきち>(1834-1872)海援隊

医師の家に生まれる
河田小龍に学び、江戸や大坂で遊学した後、長崎でシーボルトに西洋医学を学ぶ
シーボルトのところで学んでいるとき、シーボルト事件の嫌疑を受け高知へ送還される
そして、半年の獄中生活を送ることになり、長岡郡鹿児村に蟄居となり、その後脱藩する
長崎で龍馬や池内蔵太らと合流し、亀山社中結成と同時に書記官となり龍馬の片腕として働く
龍馬が暗殺された後、海援隊隊長となり、明治新政府に海軍創立案等を提出したり等する
享年39歳




長岡是容<ながおか これかた>(1812-1859)肥後藩家老

熊本藩永代家老3家のひとつ米田家に生まれる
20歳の時、父が死亡し、その後任として家老に就任する
藩校・時習館に広く人材を求めるため横井小楠を抜擢するが、反対派の妨害で失敗に終わる
これがきっかけとなって横井小楠率いる実学党の台頭と暴走がはじまる
そして、これに危機を覚えた藩は是容を文武芸倡方に任じる
黒船来航後、拒絶論を藩主に直書し、相模海岸警護の総帥に任じられ江戸に赴き藤田東湖らと交遊する
また吉田松陰密航事件の時にはその罪を軽くすべくいろんな方面に働きかけた
その後、親友であった横井小楠が水戸学を批判するようになってから絶交する
このため実学党は是容中心の明徳派と横井中心の新民派とに分裂する
そして、この政争に負けてしまうが、死ぬまで横井とは和解しなかった
1859年、病のため死去
享年48歳




中井庄五郎<なかい しょうごろう>(1847-1867)十津川郷士

中井秀助の三男として生まれる
1863年、京都で志士と交遊しているうち勤皇思想に目覚め、新選組や長州藩士と刃を交える
1867年、坂本龍馬暗殺の犯人と噂されていた三浦休太郎が新選組たちと天満屋で宴会を開いており
そこに、陸援隊・海援隊士15名と共に襲撃を行った
しかし、そこで数名を斬るも、斎藤一に返り討ちに遭い息耐える
享年21歳




中岡慎太郎<なかおか しんたろう>(1838-1867)土佐藩・陸援隊

土佐藩北川郷の庄屋の家で生まれる
父・小伝次に手習いを受け、寺子屋で学んだ後、7歳のとき、島村岱作の私塾に通う
14歳の頃、高松順蔵や岡本寧甫の塾に通い、15歳の頃、間崎哲馬の塾に通う
また18歳の頃には武市半平太の道場に通い剣を学ぶ
その後、土佐勤王党の五十人組に伍長として参加し、
山内容堂の密命を帯び、佐久間象山と会い、さらに上洛して徒目付他藩応接密事係に任じられる
8月18日の政変を契機として土佐勤王党が弾圧されると京都に残っていた中岡は脱藩し、長州へ出奔する
長州入りし、高杉晋作ら長州重臣や尊攘志士と親交をを深め、長州軍とともに上洛し、禁門の変を戦う
また、下関での四国連合艦隊との戦闘にも参加する
この頃、薩長が手を結んで幕府を倒さなければならないと考えるようになり
西郷隆盛と会談し、和解への努力をしたり、板垣退助らと密会し、説得にあたったりする
1865年、坂本龍馬と会い、双輪となり薩長同盟のために活躍する
この時、表立った活躍は坂本龍馬に任せ、中岡は主に裏方の仕事に従事していた
1866年、薩長同盟を成功させると次に板垣に西郷を紹介し、薩摩と土佐との倒幕の密盟を結ばせる
その後、三条実美と岩倉具視の間の対立を和解させることに成功する
1867年、後藤象二郎と坂本龍馬との会見で、龍馬と共に脱藩の罪を許され、陸援隊隊長に就任する
大政奉還直前の1867年11月15日近江屋に潜伏する龍馬を訪ね、そこで刺客の襲撃を受ける
20ヵ所に傷を受け、重傷ながらも2日間意識を保つが17日絶命する
享年30歳




中川宮朝彦親王<なかがわのみや あさひこしんのう>(1824-1891)朝廷・親王

伏見宮邦家親王の第4子として生まれる
1836年、仁孝天皇の養子となり、奈良一条院門主となる
その後、親王宣下を受け、尊応入道親王と称した
1848年、青蓮院宮尊融と名乗り、同年、天台座主になる
条約勅許・将軍継嗣問題では、一橋派として活躍した
しかし、安政の大獄で謹慎、永蟄居となる
1862年、処分を解除され中川宮を名乗るようになると公武合体派として活躍するようになる
孝明天皇から深い信頼を受け、8月18日の政変を指導する
同月、天皇から朝彦の名を賜り、関白の二条斉敬とともに佐幕派として朝廷を支配する
しかし、孝明天皇が崩御し、後ろ盾がなくなると次第に影響力を失っていき
岩倉具視が中心となった王政復古のクーデターが成功し、中川宮は失脚し、官職を失う
さらに親王の地位を剥奪され、広島藩に幽閉される
1870年、幽閉を解かれ、京都伏見宮で謹慎していたが、後に許され晩年は伊勢神宮の祭主となる
享年68歳




永倉新八<ながくら しんはち>(1839-1915)新選組

松前藩江戸定府取次役の子として生まれる
神道無念流・岡田十松、心形刀流坪内主馬から剣を学び、その道場で島田魁と出会う
そのうち試衛館を知るようになり、そこの近藤勇らと親交を深めるようになる
新選組が結成された後は、副長助勤として二番隊隊長を務め、
また沖田総司、斎藤一とともに剣術指南方として若い隊士を指導したりした
しかし、甲陽鎮撫隊が甲州勝沼で敗戦した後、意見が合わなくなった近藤と袂を分ち新選組を離脱する
そして、靖兵隊を組織し、各地を転戦する
その後、単身江戸に潜伏し、元松前藩医杉村松柏の婿養子となり、杉村義衛と名乗る
明治以降は北海道に渡り、監獄の剣術師範等を務めた
晩年は小樽で悠々自適の生活を送り、新聞などに自分の記事を発表したり、盟友達の石碑を建てるなど
新選組を歴史に残そうと活動した
享年77歳




中島三郎助<なかじま さぶろうすけ>(1820-1869)幕臣

浦賀与力を勤める家柄に生まれる
黒船来航の際、小舟で旗艦に乗り込み最初に対応した
1855年、長崎海軍伝習所の一期生として勝海舟らとともに入所する
後に軍艦教授、軍艦頭取等を歴任する
戊辰戦争では、榎本艦隊に同行して北海道に渡り、箱館奉行並として千代ヶ岡の守備を担当する
1869年5月の新政府軍総攻撃後、恭順を説く軍使がやってくるもこれを拒否する
そして同年5月16日、長男・恒太郎、次男・英次郎らと共に奮戦するも玉砕し戦死する
享年50歳




中野竹子<なかの たけこ>(1847-1868)会津娘子軍隊長

会津藩士の娘として生まれる
5、6歳の時、小倉百人一首をすでに暗誦できるほど聡明であった
会津藩士・赤岡大助に書や薙刀を習う
その後、赤岡家の養女となる
戊辰戦争が始まると会津の実家に帰り、妹達と共に新政府軍と戦う
涙橋の戦いで奮戦するも、銃弾を胸に受け絶命する
享年22歳
辞世の句:「武士の猛き心にくらぶれば数に入らぬ我が身ながらも」




中島信行<なかじま のぶゆき>(1846-1899)土佐藩郷士・海援隊

土佐郷士の家に生まれる
土佐勤王党に入り活動するが、武市入獄以後の反論の変化に憤慨し、1864年脱藩する
京都で坂本龍馬に出会い、神戸軍艦操練所に入る
操練所閉鎖後は龍馬らとともに薩摩藩の庇護下に入るが、朝敵となった長州を救うため活動を始める
長州では中岡慎太郎と合流し、高杉晋作らと出会う
第一次長州征伐後、五卿守護隊の再編成を助け、奇兵隊と連携して藩政府と戦う準備をした
その後、亀山社中に入り、長州藩の兵器購入の手伝いをする
海援隊となってからは、いろは丸事件の処理などを行った
維新後、戊辰戦争に参加し、会津攻撃に参加する
新政府になってからは、出納正、紙幣権頭などの役職を歴任する
また、自由党の副総裁となり、総裁の板垣退助を助けたりもしている
第一回選挙では衆議院議員に当選をし、初代議長にもなる
享年54歳




中島登<なかじま のぼり>(1838-1887)新選組

武州多摩八王子で生まれる
山本満次郎から天然理心流を学ぶ
1864年頃新選組に入隊する
甲陽鎮撫隊結成以降、土方歳三に従い、宇都宮、会津と転戦するが箱館でついに降伏する
降伏後、捕虜として収容され、そこで新選組隊士の覚え書きとして姿絵と履歴を書き残す
釈放後は鉄砲火薬店等を営み、1887年病没する
享年50歳




中根雪江<なかね ゆきえ>(1807-1877)福井藩士

越前藩士・中根衆諧の長男として生まれる
1830年、家督を継ぎ、1838年には平田篤胤から国学を学ぶ
諸役を歴任後、松平慶永の側用人となり、藩財政立て直しに活躍する
また、松平慶永の懐刀として、橋本左内とともに将軍継嗣問題や条約勅許問題に関する政争に関わる
一橋派の敗北で謹慎を余儀なくされるが、その間に「昨夢紀事」の執筆に従事する
1862年、慶永が政界に復帰すると、彼も復帰し、政治活動を再開する
横井小楠と協力し、主君を助け、公武合体運動に奔走する
王政復古後、徳川家救済のため尽力するが、新政府に怪しまれ政治から身を引く
その後、故郷に帰り、著述に専念し、数多くの著書を世に送る
享年71歳




長野主膳<ながの しゅぜん>(1815-1862)彦根藩士

国学に傾倒し、近江に高尚館という私塾を開く
1842年、井伊直弼が主膳の評判を聞き高尚館を訪れ師弟関係を結ぶ
そして、井伊直弼が藩主になると同時に彦根藩に召し抱えられ、懐刀として幕政に影響を与える
1858年、井伊直弼の命を受け、京都で公卿達と会い、一橋派を妨害する裏工作を行い
将軍継嗣での慶喜指名を阻止する
そして、「戊午の密勅」の降下に気付かず、その失敗を弁明するために井伊直弼に
「尊攘派志士達を弾圧しなければ大事が起こる」といった内容の警告文を送ったことが
きっかけとなり、安政の大獄を招くことになる
井伊直弼の死後も藩政に関わるが、勤皇に転じた彦根藩により斬罪に処せられる
享年48歳




中浜万次郎<なかはま まんじろう>(1827-1898)幕府通訳方

土佐藩の漁師の子として生まれる
14歳のとき、出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに渡る
ここで英語や航海術、測量術等を学ぶ
カリフォルニア金山で旅費を工面し、再会した仲間とともに沖縄に帰着する
帰国後、島津斉彬や山内容堂らに海外事情等を伝える
ペリー来航の際には、幕府から呼び寄せられ教えを乞われた
また、航海術を指導し、翻訳書を出版したり、咸臨丸に通訳として同乗したりしている
維新後は、開成学校の教師になり、英語教育の確立に尽力する
しかし、晩年にはあまり評価されなかったため、寂しく隠遁生活を送る
享年72歳




中御門経之<なかみかど つねゆき>(1820-1891)公家

勧修寺顕彰の子として生まれる
その後、中御門資文の養子となる
岩倉具視と関係を持ち、さまざまな朝廷工作を行う
1866年、関白の二条斉敬と朝彦親王を弾劾したため孝明天皇の怒りを受け閉門とされるが
後に明治天皇によって許される
岩倉。大久保とともに王政復古を画策し、倒幕の密勅を出すことに尽力する
王政復古後は参議となり、また維新後、会計官知事や留守長官などになる
享年72歳




中村半次郎<なかむら はんじろう>(1838-1877)薩摩藩士

微禄藩士の家に生まれる
木立打ちで独学で剣を学び、後に伊集院鴨居に師事し、野太刀示現流を学ぶ
1862年、島津久光の上洛部隊に編入され、中川宮朝彦親王を警護しながら諸藩の志士と交流していく
1864年、西郷隆盛の目に留まり、それ以後西郷を崇拝するようになる
戊辰戦争では東海道先鋒総督軍に所属し、彰義隊戦では斬り込み隊の先頭に立って勇戦する
会津戦争でも軍監として活躍する
維新後、鹿児島常備兵大隊長、近衛大隊長、陸軍少将、熊本鎮台司令長官を経て陸軍裁判所長となる
1873年、征韓論に敗れた西郷とともに下野する
篠原国幹、村田新八の私学校設立に参画する
1877年、西南戦争が勃発すると、指揮官として奮戦するも城山の決戦で討死する
享年40歳




中村敬芋<なかむら けいう>(1832-1891)幕臣・蘭学者

江戸の与力の子として生まれる
昌平坂学問所で学び、桂川甫周に蘭学を学ぶ
1866年、幕府の留学生としてイギリスに渡航する
帰国後、静岡学問所の教授となる
1873年、明六社の結成に参加する
享年60歳




中山忠光<なかやま ただみつ>(1845-1864)公家・天誅組

中山忠能の七男として生まれる
武市半平太、久坂玄瑞、吉村寅太郎ら尊王攘夷の志士達と交遊していき、
攘夷派の公家として知られるようになる
1863年、19歳の若さで国事奇人に任じられるが、まもなくこの官位を返上し、長州に入る
そして、下関の外国船砲撃事件に関与し、その後帰京する
同63年、天誅組の盟主に擁立され、吉村寅太郎らの同志を率いて京を出発
8月17日に奈良の五条代官屋敷を襲撃し、代官らを殺害する
しかし、8月18日の政変で賊軍となり、幕府の追撃を受ける
その後、さらに十津川郷士を引き込んで高取城奪取を試みるも敗北、長州内に潜伏する
しかし、第一次長州征伐により恭順派が実権を握ると危険人物とみなされ、下関郊外で暗殺される
享年20歳




中山忠能<なかやま ただやす>(1809-1888)公家

藤原北家花山院流権大納言中山忠頼の長男として生まれる
明治天皇の外祖父
黒船来航以来、一貫して攘夷を唱える
条約勅許問題では、勅許を許した九条尚忠に対して88人の公卿を率いて抗議する
また、公武合体論が起こると岩倉具視らと和宮降嫁に尽力する
この主義が変わったかのような行為に攘夷派から攻撃され、朝廷より退けられる
しかし、その後すぐ国事御用掛として復活する
だが、1864年、禁門の変の際、長州に協力したとして謹慎を命じられる
その後、孝明天皇の死によって許される
1867年、岩倉具視、大久保利通らと王政復古を成功させ倒幕の密勅作成に関与する
維新後は神祇伯等を歴任する
享年80歳




那須信吾<なす しんご>(1829-1863)土佐藩郷士・天誅組

土佐藩郷士の家に生まれる
坂本龍馬と知り合い、1861年、土佐勤王党に参加する
安岡嘉助、大石団蔵とともに吉田東洋を暗殺し、脱藩して長州に逃れる
天誅組挙兵に参加し軍監を勤め、各地で勇戦するが
鷲家口の戦いで狙撃されて戦死する
享年35歳




鍋島直正<なべしま なおまさ>(1814-1871)肥前藩主

肥前藩主・鍋島斉直の子として生まれ、17歳で家督を相続する
1835年、佐賀城二の丸焼失を機に実権を手に入れ、保守派の抵抗を排して人材登用を行う
また、諸制度を改め、産業を振興する
1853年、ペリーが来航し、阿部正弘が諸大名に意見を求めると強硬な攘夷論を展開する
1861年、隠居して閑叟と名乗り、家督を直大に譲ってからも事実上の藩主として影響を及ぼす
そして、幕府や朝廷と微妙な関係を保ちながら雄藩随一の近代化された軍備を背景に存在を誇示する
新政府では議定となり、のちに上院議長、開拓使長官、大納言になる
享年58歳




楢山佐渡<ならやま さど>(1831-1869)盛岡藩家老

代々家老職にある楢山家に生まれる
南部利剛が藩主になると重用されるが、一揆の責任を取り辞職し、一時藩政から離れる
戊辰戦争時、佐幕を主張し、列藩同盟を裏切った秋田藩を討つべしと主張する
しかし、楢山が藩政から離れていたときに代わりに起用された東中務がこれに反対し、全面対決することになる
そして、この藩内抗争に勝利し、自ら鹿角口攻撃軍の総大将として攻撃するが官軍を破ることができず
盛岡藩を窮地に追い込む
1869年、戦争責任を負い、報恩寺で自刃する
享年39歳




成瀬正肥<なるせ まさみつ>(1835-1903)尾張藩付家老

丹波国篠山藩主・青山下野守忠良の三男として生まれる
1855年、尾張藩付家老で犬山藩主の成瀬隼人の養子となり、養父の死後、成瀬家を継ぐ
1863年、徳川慶勝に随従して上洛し、朝廷と幕府間の周旋に尽力する
第一次長州征伐では総督の徳川慶勝に先んじ、1150名の兵士を率いて京都から広島に出陣する
第二次長州征伐では大坂まで出兵する
鳥羽伏見の戦いでは、皇居の南門を守衛した後、甲信地方に出兵する
王政復古後、犬山藩知事に任命される
享年69歳




南部利剛<なんぶ としひさ>(1826-1896)盛岡藩主

前藩主・南部利済が引退した後も独裁を続けたため、その子で藩主に就任した南部利義がノイローゼになり
そのため、弟であった利剛が藩主となる
この時、藩内は、利剛派、利済派、利義派に分裂し、そこに百姓一揆が発生し、農民達は仙台藩に祖国の悪政を訴えた
仙台藩が盛岡藩に介入してから、利剛が藩政の中心に据えられるようになる
しかし、安政の大地震で負傷してから身体に故障が多くなり、藩政は信頼する家臣に一任するようになった
そして、従兄弟の関係にあった楢山佐渡を起用するが、彼が佐幕派だったため盛岡藩は朝敵の汚名を着せられることになる
戦後は隠居してしまう
享年71歳




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