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大石弥太郎<おおいし やたろう>(1829-1916)土佐藩郷士

香美郡野市村の郷士の子として生まれる
1861年、江戸で勝海舟の塾に入り、航海術と砲術を学ぶ
また武市半平太を江戸に招き、勤王党の結成を促した
土佐勤王党が弾圧されるとそれの赦免運動を行うも実ることはなかった
享年88歳




大木喬任<おおき たかとう>(1832-1899)肥前藩士

佐賀藩士・大木知喬の長男として生まれる
藩校・弘道館で学び、1850年、江藤新平らと義祭同盟に参加し、藩政改革を主張するも
藩論を尊王攘夷に導くまでには至らなかった
維新後、新政府で参与、京都府判事、軍務官判事等を歴任する
この時に江藤新平と協議し、岩倉具視に東京遷都を建白する
1868年7月に江戸が東京に改められ、9月に明治天皇が東幸した時、それに随行する
以後、東京府知事、文部卿等を歴任する
また、1873年には参議兼司法卿となり、萩の乱、神風連の乱の裁判処理にあたる
元老院議長兼民法編纂総裁となった際には法典を整備し、功績を残す
享年68歳




大久保一翁<おおくぼ いちおう>(1817-1888)幕臣

江戸二番町に譜代大名の子として生まれる
名は忠寛、幼名は市三郎で、隠居後に一翁と名乗る
ペリー来航の翌年、老中・阿部正弘の下で目付に登用され、岩瀬忠震とともに海防掛を務める
安政の大獄では、一橋派に属していたため罷免される。
1861年、許されて外国奉行、大目付、勘定奉行等を歴任する
1865年、隠居して一翁と称した後も幕政に関与し、
大政奉還、議会制度等の論策で勝海舟や坂本龍馬等に影響を与えた
鳥羽伏見の戦い後、会計総裁、若年寄に就任して江戸無血開城に貢献する
維新後は、東京府知事、元老院議官などを務める
享年72歳




大久保利通<おおくぼ としみち>(1830-1878)薩摩藩士

薩摩藩の下鍛冶町の小姓・大久保次右衛門の長男として生まれる
1846年、17歳の時に記録所書助役として出仕する
1849年、お由良騒動に父が関与し流罪になり、
大久保自身も免職され、以後の生活は苦しいものとなる
島津斉彬が藩主となり藩政改革が行われると復職し、
同郷の西郷隆盛とともに若手改革派のリーダー的存在となる
島津斉彬が死去すると同志数十名とともに脱藩を企てるが思いとどまる
それから藩内で孤立するのを避け、権力機構を利用することを目論みる
そのためには島津久光に接近する必要があったので、彼の好きな囲碁を学び、信頼を得て
尊攘派下級藩士中心に誠忠組を組織するようになる
また、西郷が島流しになっている間、久光の公武合体運動に協力し、藩政の中心に参加していく
1862年、誠忠組の同志により寺田屋事件が起こった時、久光の命でこれを鎮圧し、
同志達の処刑等の処分に命乞いすることはなかった
第二次長州征伐の際、幕府の老中・板倉勝静が劣勢を挽回しようとして薩摩を説得しようとした時
大義名分がないことを主張し、老中が下した幕命を拒否した
薩摩藩も倒幕の方に傾き、大久保は岩倉具視らと策を講じ、討幕の密勅を得ることに成功する
また、慶喜が大政奉還を行うと、王政復古のクーデターを計画し、討幕派を逆転勝利に導く
明治になると、版籍奉還や廃藩置県等を行い、新政府の基礎作りに貢献する
その後、内務卿となり全てを掌握するようになる
1877年、西南戦争で無二の親友である西郷隆盛を敵に回すことになるが
私情を交えず武力鎮圧を行う
1878年5月14日、紀尾井坂で士族・島田一郎らに襲われ、めった刺しにされ絶命する
享年49歳




大村益次郎<おおむら ますじろう>(1824-1869)長州藩士・兵学者

1825年、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に村医・村田孝益の子として生まれる
幼い頃に名を蔵六と改名する。蔵六とは、首、手足、尾を引っ込めたカメという意味がある
はじめに医学を修め、19歳で梅田幽斎に師事する。
1843年、広瀬淡窓に儒学を学んだあと、22歳で緒方洪庵の適塾の52番目の入門者となる。
入門1年にして頭角を現すようになり、長崎に遊学してオランダ語をマスターする。
1849年には塾頭にもなる。
1850年、父の願いを聞きいれて、故郷へ帰り村医者となる。
しかし、彼は 人付き合いが下手だったため、経営は苦しかったといわれる。
1851年正月、村の娘と結婚する。
しかし、この娘がヒステリーな体質であったため、 それ以後蔵六は悩まされ続ける。
1853年9月28日、伊予宇和島藩の蘭学顧問・二宮敬作に招かれて故郷を後にする。
1854年1月、藩から上士待遇の士籍を与えられ、樺崎砲台や蒸気船の設計を行う。
1855年、藩の内命で洋学塾を開く。
ちなみに、この時期の大村益次郎は、宇和島藩が幕末期に なした開明的事業のすべてに関わっている。
1856年、参勤交代に従って江戸入りし、11月1日に蘭学塾・鳩居堂を開く。
また、同月16日には蕃書調所の教授手伝に迎えられる。
そして、まもなく幕府の講武所教授にも任ぜられ、江戸で一番の蘭学者と言われるようになる。
1860年、長州藩から求められて、江戸藩邸入りをする。
この移籍の裏には、 優秀な益次郎を幕府から取り戻そうとする桂小五郎や周布政之助の根回しがあったと言われる
1863年、8月18日の政変に伴って帰国する。
高杉晋作の推挙によって 手当防御事務用掛となって三田尻の軍港化などを手掛ける
1864年、下関を攻撃した外国戦隊との講和に関わる
1865年、第二次長州征伐の動きを察知した長州は益次郎を軍務掛に就任させる。
そして、益次郎は明倫館教授として将校の育成に当たる。
この頃、正式に上士となり 名前を大村益次郎永敏と改名する。
第二次長州征伐が始まると、総司令官として全作戦を指導し、
また後に自ら石州口を 守る総大将として出陣する。
そして、この戦争で長州を勝利に導いた功労者の一人となる
その後の戊辰戦争時、益次郎は長州の重鎮として江戸にあり、全作戦を監督した。
その思考は常に計数的かつ合理主義に貫かれていたと言われている。
そして、彼は奥羽や北越、箱館の戦いも指導した。前線に立つことはなかったが
明晰な頭脳で軍を統括し、作戦を成功させていった
1869年3月、維新の功績で1500石の永代録を下賜された彼は、
全軍を掌握する兵部大輔に任じられ、近代兵制の整備に取りかかった。
1869年9月4日、夕食中に数人の刺客に襲われ、頭と大腿部に重傷を負う。
足の切断手術を要したが、認可を東京に要請している間の11月5日に、敗血症を 起こして死亡する。
享年46歳




沖田総司<おきた そうじ>(1842-1868)新選組

1842年7月8日、沖田勝次郎の嫡男として生まれる。幼名を宗治郎という。
1852年、11歳で天然理心流近藤周助の門に入る。
1855年、白河藩を脱藩する。
1862年、上洛してからは、新撰組の剣術教授方兼一番隊隊長としてその名を馳せる。
新撰組の名を一夜にして轟かせた池田屋事件では、近藤勇、永倉新八らと共に斬り込んだが、戦闘中に喀血昏倒。
以後、労咳(結核)との闘病生活が始まる。
鳥羽伏見の戦いにも参加せず、江戸に脱出し神田和泉橋の医学所や松本良順宅などで療養する
1868年5月30日、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で病没する
享年27歳







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