≪さ≫




西園寺公望<さいおんじ きんもち>(1849-1940)公家

右大臣徳大寺公純の次男として生まれる
右中将西園寺師季に養育される
王政復古後、参与に任じられる
戊辰戦争では山陰道鎮撫総督・東山道第二軍総督・北国鎮撫使等を歴任する
会津戦争では征討越後口総督府参謀となる
戦後、新潟府知事に任命され、300石を永世下賜されるが、1871年フランスに留学する
フランスでは法学を学び、1880年に帰国する
帰国後、明治法律学校(のちの明治大学)を創設する
オーストリア公使やドイツ公使等を歴任し、その後政界に入る
桂太郎と交互に総理大臣を勤めた
享年92歳




西郷隆盛<さいごう たかもり>(1828-1877)薩摩藩士

鹿児島城下甲突川畔の下加治町で西郷吉兵衛の長男として生まれる
18歳の時、郡方書役助となる
1854年、西郷が提出した藩政についての意見書が島津斉彬の目に留まり、庭方役に抜擢される
これに感激した西郷は以後、斉彬に忠誠を誓い、志を受け継ぐようになる
島津斉彬の死後、安政の大獄から尊攘派僧侶の月照をかくまったが、藩庁に保護を拒否される
絶望した西郷は月照とともに錦江湾に身投げする。
しかし、一命を取り留め菊池源吾と名を変え奄美大島に潜居することになる
1864年、急進派に説得された島津久光によって呼び戻され、中央政界で活躍することになる
大久保利通とともに禁門の変、第一次長州征伐に参加し、長州軍を撃退し、軍略家としても注目されるようになる
その後も、薩長同盟、鳥羽伏見の戦い、大政奉還、江戸無血開城、戊辰戦争等で常に主役として活躍する
箱館戦争終結後、新政府入りを辞退し、鹿児島に帰って藩政改革に取組む
しかし、新政府に請われて参議となり廃藩置県等を断行していき存在感を示す
その後、岩倉使節団の留守を預かり、国政を運営したが、朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論争に敗れ下野する
1877年、西郷が作った私学校の生徒が火薬庫から弾薬を運び出し、新政府と衝突し、
私学校メンバーの軽挙妄動を叱るが、挙兵を訴える中村半次郎や篠原国幹らの激情に自らの命を預け挙兵する
熊本をはじめとし、九州各地を転戦するが、田原坂の戦いで敗れて覚悟を決め鹿児島城山にこもる
そして、大腿部と腹部に銃弾を受け、倒れた西郷は、別府晋介に介錯を頼み切腹する
享年51歳




西郷頼母<さいごう たのも>(1830-1903)会津藩家老

会津藩家老・西郷頼母近思の嫡男として生まれる
14歳のとき側役小姓頭に任じられ、22歳で結婚、1855年、父の死により家督を相続する
1862年、家老に就任する
同年、松平容保の京都守護職就任において、頑強に反対したため家老職を解任される
その後、4年間程隠棲生活を送る
1868年、鳥羽伏見の戦いで敗戦が決まったあと家老に復職し、また、白河口の総督にも就任する
家老に就任すると、まず軍制改革を行った
そして、新政府に嘆願書を幾度となく提出し、同時に藩に帰順策を提示していたが、意見が容れられることはなかった
やむなく戦争に参加し、白河城の守りにつくが、新政府軍に陥落させられる
白河城が陥落すると会津若松城下に戻り、藩に和議恭順を主張するが聞き入れられなかった
そして、閉門蟄居を命じられる、また全員玉砕を発議するもこれすら聞き入れられず、絶望し、若松城を脱出する
そして、母や妻ら一族21名は自刃し、後々まで卑怯者呼ばわりされることとなる
その後、米沢、仙台に入り、最後は箱館戦争に加わる
1869年、蝦夷共和国は敗北すると捕らえられ、禁固刑に処せられる
のちに許され東照宮の禰宜を務める
享年74歳




西郷従道<さいごう つぐみち>(1843-1902)薩摩藩士

西郷家の三男として生まれる。西郷隆盛の実弟
早くして両親と死別したため、隆盛を親代わりに成長し、大きな影響を受ける
戊辰戦争に従軍し、鳥羽伏見の戦いで負傷するが、回復すると各地で転戦する
1869年、箱館戦争終結直後、山県有朋とともに軍事視察員として渡欧する
1870年、帰国と同時に兵部権大丞に就任し、その後、陸軍少輔、陸軍中将と昇進していく
1974年、台湾出兵の都督となり遠征に出兵し、成功させるが大量の死者を出す
西南戦争では西郷隆盛と対立し、新政府側につくが、そのことで非難を浴びる
この後、参議兼文部卿、陸軍卿等を経て海軍大臣になったことにより海軍に転身する
そして、近代海軍機構の整備を行う
1898年には初の海軍元帥となる
享年60歳




斎藤監物<さいとう けんもつ>(1822-1860)水戸藩士

神官の家に生まれる
藤田東湖に師事し、また剣技も巧みであった
徳川斉昭の藩政改革に協力し、斉昭が蟄居を命じられると許しを得るための運動をし、処罰される
しかし、斉昭が許されると同時に許された
安政の大獄で幕府が水戸藩に圧力をかけると江戸に潜伏し、桜田門外での井伊直弼襲撃に参加する
その時に重傷を負い、老中・脇坂邸に自首し、斬奸状を幕府に提出する
しかし、傷が深く、捕縛されて5日後に死亡する
享年39歳




斎藤一<さいとう はじめ>(1844-1915)新選組

明石藩足軽山口祐助の次男として生まれる
1862年、誤って人を殺害し、京都に逃れ太子流剣術の田中某の道場に身を寄せる
1863年、壬生浪士組の隊士募集に応じ、京都で入隊する
新選組となってからは副長助勤、池田屋事件後の編成では三番隊組長に就く
伊東甲子太郎が新選組を離脱したとき、斎藤も高台寺党に入隊する
しかし、この入隊は近藤の密命を受け、動向を探るためのものであった
伊東甲子太郎暗殺後、変名を用い、別人として再び新選組に復帰する
戊辰戦争では、甲州勝沼の戦いから会津戦争を転戦し、白河の戦いでは土方に代わり隊長を務める
しかし、榎本艦隊に乗って蝦夷に行くことには最後まで反対し、会津に残留する
その後、如来堂の戦いで戦死したと思われるも生き延びる
会津戦争終結後、会津藩士とともに斗南に配流され、そこでさんざん苦労した後、
東京に戻り、そこで会津藩大目付の娘・時尾と結婚し、藤田五郎と名乗る
維新後は元新選組隊士であったことを隠し、警視庁に入り、西南戦争にも参加する
警視庁退職後は、東京高等師範学校に勤める
1915年、胃潰瘍で死去。床の間に正座したまま亡くなったという
享年71歳




斎藤弥九郎<さいとう やくろう>(1798-1871)剣客

越中氷見郡で郷士の長男として生まれる
15歳のとき、江戸に出て旗本の下男となる
そして儒学を古賀精里に学び、剣術は岡田十松の撃剣館で神道無念流を学ぶ
また岡田十松の死後は、師範代を務めるようになる
その後、独立し、練兵館を創設する。
しかし、1838年に火事で道場を失い、麹町に道場を移す
門下生には桂小五郎や高杉晋作等がいた
また、幕臣の江川坦庵と親交が深く政治的な協力は惜しまなかった
しかし、1868年、官軍が江戸に迫った時には幕府に加勢せず、大義を説き、門徒らの軽挙を戒める
維新後、新政府入りする
享年74歳




酒井忠篤<さかい ただすみ>(1853-1915)庄内藩主

前藩主が若死にし、子がなかったため、養子であった忠篤が家督を継ぎ藩主となる
譜代大名として幕府に信頼され、新徴組による江戸警備を命じられる
また、1864年、1867年には江戸の長州藩邸と薩摩藩邸を没収するように命じられ実行する
戊辰戦争では、列藩同盟に加盟していた藩では一番最後に降伏する
降伏後は、東京清光寺に謹慎となり、持っていた土地は全て没収となる
その後、許され1871年に兵部省に入り、練兵御用掛陸軍少佐に任ぜられ、兵学の研究をする
享年63歳




酒井孫八郎<さかい まごはちろう>(1836-1871)桑名藩家老

父は服部半蔵の子孫である。
桑名藩家老・酒井三右衛門の養子となり、1858年に家督を継ぐ
鳥羽伏見の戦いで桑名藩は敗れ、藩主の松平定敬が江戸に脱出したため
留守家老として桑名城で評定を行い、藩論の統一をはかった
そして、前藩主の子を立て、亀山藩の仲介で朝廷に嘆願書を出し、桑名城を明け渡した
この後、奥州で転戦する定敬を帰藩させるため箱館に渡り説得し、連れ帰る
享年36歳




榊原謙吉<さかきばら けんきち>(1830-1894)幕臣・剣客

旗本の家に生まれる
直心影流を男谷精一郎に学び、講武所剣術師範となる
遊撃隊の頭取となり、上野戦争では輪王寺宮を護衛する
維新後、武道の衰退を憂い、下谷車坂に道場を開き、撃剣会を行う
そして、後世に武術とその精神を遺そうと努力する
生涯髷を落とさなかった
享年65歳




坂本龍馬<さかもと りょうま>(1835-1867)土佐藩郷士・海援隊

土佐藩郷士・坂本八平の次男として生まれる
幼少時は泣き虫で塾の先生に見放されるほど愚鈍であった
幼いときに母を亡くしたため、姉の乙女が母代わりとして育て上げた
日根野弁治道場で小栗流の剣術を学び、19歳で目録を得る
また、江戸に出て、お玉が池の玄武館、桶町の千葉定吉道場で剣の修行をする
1853年、ペリーが来航した時、品川の海岸警備につき、初めて海外というものに目を向ける
そして、攘夷思想に染まり、佐久間象山を訪ねて、洋式砲術を学ぶ
江戸での修行を終え、土佐に帰ってくると、蘭学を勉強し、河田小龍の下で海外の知識を付ける
その後、武市半平太率いる土佐勤王党に加盟するが、
土佐藩に見切りをつけて、1862年脱藩する
脱藩した後、京都の長州藩邸に身を寄せるが、現時点での倒幕は無理だと悟り、江戸の千葉道場に行く
そして、ある日千葉道場の千葉重太郎に誘われ幕府の重臣・勝海舟を殺害に向かうが
勝の現実的な構想に触れ、その場で弟子になってしまう
1863年、脱藩の罪を赦免され神戸海軍操練所設立の準備として開かれた海軍塾で塾頭を務める
また同年、8月18日の政変の影響で土佐藩の藩論も変り、帰郷命令が出るがこれを無視し、再び脱藩者となる
そして、海軍操練所が廃止されることになると、勝の手配で薩摩藩の庇護下に入る
やがて、長崎に移り、長崎の亀山に浪人結社として亀山社中をつくる
そこでグラバーらと取り引きして、武器や軍艦を輸入し、利益をあげながら
禁門の変以来、犬猿の仲となっている薩摩と長州を結び付けるための政治活動に積極的に取組んでいく
中岡慎太郎と協力して西郷と会談し、桂を説得して、1866年、薩長同盟を成立させる
薩長同盟成立の翌日、寺田屋で幕吏の襲撃を受けるが、辛くも窮地を脱することに成功する
この事件が縁となり、お龍と結婚し、薩摩へ日本初の新婚旅行に出かける
その後、高杉晋作の要請で四境戦争に参戦した後、亀山社中を改編し、海援隊を設立し、隊長に就任する
1867年7月、神戸に向かう夕顔丸船内で船中八策という政権構想を後藤に説き、
これを後藤が山内容堂へ建言し、そしてこの建白書を提出された幕府もこれを受理し
1867年10月14日、大政奉還が実現する
同年の11月15日、近江屋にて中岡慎太郎と共に数人の刺客に襲撃され絶命する
享年33歳




相楽総三<さがら そうぞう>(1839-68)赤報隊

下総相馬の郷士・小島兵馬の四男として生まれる。本名・小島四郎
国学と兵学を学び、私塾を開く
1861年に父から5000両を引き出し、各地を巡歴して同志を集め、慷慨組の赤城挙兵、
1864年に天狗党の筑波山挙兵に援助・参加するが失敗し、郷里に戻る
それから1866年まで学問に励むが、京に上り勤王志士達と交わり、西郷隆盛と知り合う
1867年、西郷の指示で江戸に戻り、浪士を集め、江戸市中に騒乱を引き起こす
そして、これに業を煮やした幕府が薩摩藩邸を焼き討ちにした
これが鳥羽伏見の戦いのきっかけとなる
1868年、鳥羽伏見の戦いが終了した頃、敗走中の幕府軍を追撃するための先鋒隊として京都で赤報隊を結成する
そして、新政府軍の許可を得て、年貢半減令を布告しながら江戸を目指していった
ところが、新政府は軍資金不足のため、年貢半減令を取り消しを決定し、赤報隊に引き返すように命令した
しかし、相楽はその命令を聞かず、そのまま進軍していった
結局、赤報隊は偽官軍の濡れ衣を着せ、信州諸藩に攻撃させた
そして、信濃で捕縛され取調べもないまま処刑され、梟首となる
享年30歳




佐川官兵衛<さがわ かんべえ>(1831-1877)会津藩家老

若松城下の物頭の家に生まれる
1862年、藩主・松平容保が京都守護職となると、彼に従い上洛し物頭、学校奉行に就任する
鳥羽伏見の戦いでは別動隊を率いて鳥羽口で善戦する
幕府が劣勢になった時、伏見方面の軍事総督に任じられるが、時既に遅く、戦況を挽回することはできなかった
しかし、この戦いで勇名は敵味方に知れ渡り、「鬼官兵衛」と恐れられ、永く記憶されるようになる
越後長岡戦でも、軍事奉行頭取として活躍。
続く会津若松城篭城戦でも城外諸兵の総指揮を執り防戦する
敗戦が確定した後も、藩主の特使が降伏せよとの伝達があるまで抵抗を続けた
降伏後は禁固生活を送るが、維新後許され、川路利良に起用され、警視局に入る
西南戦争では、巡視隊を率いて出陣。私学校軍に急襲をしかけるが待ち伏せに遭い
左腕・胸・額に銃弾を受けて即死する
享年47歳




佐久間象山<さくま しょうざん>(1811-1864)松代藩士

松代藩佑筆頭・佐久間国善の子供として生まれる
16歳の時、鎌原桐山から漢学を学び、町田源左衛門から和算を学ぶ
1831年、藩主・真田幸貫の子、幸良の近従に抜擢される
その2年後、特別に江戸遊学を許され、佐藤一斎に学ぶ
一旦、帰藩した後、再び江戸に出て塾を開く
1841年、藩主・幸貫が老中になったことから顧問となり、海防八策を提出する
また、江川坦庵にに入門し、西洋式砲術を学ぶ
1851年、江戸木挽町に西洋式砲術と兵学を教える塾を開く
またこの塾では、技術は西洋から、道徳は東洋からという思想の下、漢学も同時に教えていた
この塾の門下から、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、河井継之助などが育っていった
1853年、ペリーが来航すると、松代藩から軍議役に任じられ、
老中・阿部正弘に意見書を提出するなどして積極的に活動する一方、
吉田松陰に密航を勧めていた
1854年、吉田松陰の密航未遂事件に連座したものとされ、自宅蟄居を命じられる
この蟄居の間、西洋研究に没頭し、地震予知機や電池などを開発する
1864年、許され上洛し、公卿達に時勢を説く
しかし、その大胆な言動から尊攘過激派の標的となり
7月11日昼間に三条木屋町で河上彦斎らに暗殺される
享年54歳




佐々木高行<ささき たかゆき>(1830-1910)土佐藩士

土佐藩士の長男として生まれる
郡奉行、大目付を歴任する
1866年、山内容堂の命令で太宰府の三条実美を訪問し、九州の情勢を探索する
帰国後、藩内倒幕派の中心として活動する
1867年、イカルス号水兵殺害事件が起こると出張して坂本龍馬や後藤象二郎と会談し
事態の収拾に努める
1868年、鳥羽伏見の戦いで海援隊を率いて長崎奉行所を占領し、
公金を接取し、新政府に引き渡す
1871年、岩倉遣欧使節団の理事官として欧米を歴訪する
帰国後、西南戦争などでも活躍する
享年81歳




佐々木只三郎<ささき たださぶろう>(1833-1868)会津藩士・見廻組

会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる
幼い頃から神道精武流を学び、また沖津庄之助に槍を学び、元服前に奥義に達するほどの腕前となる
その後、幕臣・佐々木矢太夫の養子となる
そして、講武所出仕を命じられ、剣術師範役に就任する
1863年、浪士組の結成で取締並出役となり京都に赴任する
清河八郎が騒ぎを起こしたため、幕府の帰還命令で浪士組本隊とともに江戸に戻るが
この時に密命を受け、赤羽橋で清河八郎を暗殺する
翌年、再び上洛し、京都見廻組の与頭となり、禁門の変にも参戦する
鳥羽伏見の戦いでは遊撃隊隊長として戦うが、
敗走中に腰に銃弾を受けて重傷を負い、紀三井寺で死亡する
享年36歳




佐野常民<さの つねたみ>(1822-1902)肥前藩士

1822年、佐賀藩・下村家の5男として生まれる
10歳の時、藩医・佐野常微の養子となる
弘道館で学び、緒方洪庵、伊東玄朴、らに師事する
1853年、佐賀藩精練方主任となり、蒸気船や蒸気機関車の模型を完成させる
また、佐賀藩の海軍育成にも関わる
1867年、パリ万博参加のため渡欧し、帰国後、兵制改革や日本海軍の創設に尽力する
1877年、西南戦争の際、日本赤十字社の前身である博愛社を創設する
1880年、大蔵卿に就任。その後、元老院議長、枢密院顧問等を務める
享年81歳




沢太郎左衛門<さわ たろうさえもん>(1834-1898)幕臣

1834年、幕臣・沢八太郎の子として生まれる
1857年、長崎海軍伝習所に入所し、海軍砲術を学ぶ
1860年、軍艦操練所教授方手伝出役となる
1862年、榎本武揚らとともにオランダに留学し、海軍術を研究する
1867年、開陽丸で帰国
1868年、戊辰戦争で開陽丸艦長を務め、蝦夷共和国では開拓奉行となる
五稜郭開城後、入牢するが、1872年に許される
その後、開拓使御用掛、兵部省出仕を経て、ヨーロッパ視察の任を受ける
視察から帰国後、海軍教官として日本近代海軍の発展に貢献する
享年65歳




沢宣嘉<さわ のぶよし>(1853-1873)公家

権中納言・姉小路公遂の三男として生まれる
1853年、沢為量の養子となる
1858年、88人列参奏上に参加した後、三条実美らとの交流により尊王論者となる
1862年、国事御用書記に就任する
1863年、8月18日の政変により6人の公卿とともに都落ちし、長州へ行く
長州では周防国三田尻の招賢閣に寓居する
平野国臣が生野で挙兵するとこれに参加し、首領として迎えられるが、3日で鎮圧される
この生野の変が鎮圧された後、讃岐・伊予等を転々とし、長州で王政復古を迎える
王政復古により剥奪された官位を取り戻すと、帰京し、新政府に参加。参与となる
そして、九州鎮撫総督兼外国事務総督、長崎裁判所総督、外務卿等を歴任する
しかし、1871年、不平士族との関連が取りざたされて免官となる
1873年、病没する
享年39歳




沢村惣之丞<さわむら そうのじょう>(1844-1868)土佐藩郷士・海援隊

1844年、土佐郡潮江村の地下浪人の家に生まれる
間崎哲馬に経済を学び、また、この間崎とともに武市半平太の土佐勤王党に加盟する
1862年、吉村寅太郎とともに脱藩し、長州を訪れ、久坂玄瑞らと交わる
長州でのことを土佐勤王党の同志に報告しに土佐に戻り、
清河八郎の画策する京都義挙に参加すべく再び土佐を脱出する
この時、坂本龍馬も同行する
2人は下関に出るが、吉村寅太郎が上京しているのを知ると、後を追いかけて上京する
京都では長州藩邸に潜伏してた。
それから龍馬は江戸へ去り、沢村は時が来るまで勤王公卿に仕えることにし、京都に残るが
その後、神戸軍艦操練所に入り、そこが閉鎖されると亀山社中へ、そして海援隊へと龍馬と行動を共にする
1868年、鳥羽伏見の戦いで、海援隊は長崎奉行所を襲撃するが、
その際、沢村は薩摩藩士・川畑平助を誤射し、殺してしまう。
そのことに責任を感じた沢村は薩摩藩側の制止も聞かず、割腹して果てる
享年25歳




三条実美<さんじょう さねとみ>(1837-1891)公家

右大臣・三条実万と土佐藩主山内豊策の娘・紀子の間に第4子として生まれる
幼少時は京都郊外の農家で育てられ、尊攘思想を持つ富田織部に教育を受ける
1859年、安政の大獄で父が隠居・出家、そして死去したのを見て尊攘思想に目覚める
1862年、従三位権中納言となると、攘夷督促の勅使として江戸に向かい、公武合体派を押え込む
しかし、8月18日の政変で壬生基修、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、錦小路頼徳、四条隆謌らと長州に逃れる
1865年、太宰府延寿王院に幽閉され、そのまま維新を迎える
大政奉還で京都に戻ると、新政府で議定となる
その後、議定兼輔相、右大臣等を経て太政大臣となるが、征韓論争が起こるとノイローゼになってしまう
1885年、内閣制度が発足すると内大臣となり明治天皇に仕える
それから政界を退き、公爵となる
享年55歳




三条西季知<さんじょうにし すえとも>(1811-1880)公家

8月18日の政変で京都を追われた七卿落ちの1人
急進派の公家として知られ、1862年には国事御用掛に任ぜられる
京都を追われた後、王政復古により帰京する
維新後は明治天皇の侍講を務める
享年70歳




三戸式部<さんのへ しきぶ>(?-1882)盛岡藩家老

1862年、盛岡藩家老となる
奥羽越列藩同盟結成時、激論が交わされる中、さほど口出しすることもなく楢山佐渡に一任する
1867年〜68年まで京都に留まり、帰国する
盛岡藩の敗北を見届けると、藩主・南部利剛の命を受け、九条道孝鎮撫総督に謁見し
降伏謝罪の嘆願書を出す







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