≪そ≫




相馬主計<そうま かずえ>(1843-?)新選組

常陸笠間藩士船橋平八郎の子として生まれる
1867年10月、新撰組加盟する。
天満屋事件に参戦し、翌年の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還する
甲陽鎮撫隊にも加わって戦い
近藤勇が投降した際には土方歳三とともに江戸に潜入し、勝海舟に会い助命嘆願をする
勝海舟からの書状をもらい、板橋に赴くがそこで捕まる
赦免後、蝦夷に渡航し、宮古湾の海戦に土方歳三に従い参戦する
以後、箱館市中の警備役として、弁天台場に入る
5月15日の弁天台場の陥落を期として、新撰組取締りの隊長に任ぜられる
その後、投降し、東京に送られる
1870年、坂本竜馬殺害事件について取り調べを受ける
二年間の流刑生活で、植村マツ結ばれ、静岡で暮らしたと伝えられる
またその一方で、江戸蔵前で自刃したとも伝えられる





副島種臣<そえじま たねおみ>(1828-1905)肥前藩士

佐賀藩の国学者・枝吉種影の次男として生まれる
後に副島家の養子となる
「肥前の松陰」とも言われた熱烈な尊王論者の兄・枝吉神陽の「日本君一論」に影響を受け
彼を中心とする政治結社「義祭同盟」に参加する
江藤新平、大隈重信らとともに、藩政改革を推進する
1865年、藩が長崎に設立した学校「致遠館」の教師となり
自らもフルベッキに師事し、英語、米国憲法、万国公法等を自発的に学ぶ
1867年、大隈重信と共に脱藩上京するが、まもなく藩吏に捕らえられ
国元に送還され、謹慎を命じられる
明治政府樹立後、出仕して参議・参与として活躍する
政体書の起草にも携わる
また、1873年には、特命全権大使として清国に向かい、
欧米列強に先んじて皇帝拝謁に成功するなど、外交関係でも優れた手腕を発揮する
その後、征韓論に組し、明治6年の政変で西郷隆盛と共に下野し、清国を歴遊する
以後は再び政府高官を歴任する
享年77歳




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