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高島秋帆<たかしま しゅうはん>(1798-1866)幕臣

長崎の町年寄・高島四郎兵衛茂紀の三男として生まれる
のち父の跡を継ぎ、会所調役頭取となる
荻野流砲術を学び、皆伝を得て師範となる
また、出島に赴きオランダ人から西洋式砲術を学ぶ
アヘン戦争の報が伝わると、幕府に西洋式砲術の採用を建言し、砲術の実演を行う
これにより幕府は西洋式砲術の導入をすることになる
江川太郎左衛門に砲術を教え、彼の下で西洋式大砲の鋳造を行う
その後は、講武所砲術師範となり、兵制改革に尽力する
享年69歳




高杉晋作<たかすぎ しんさく>(1839-1867)長州藩士・奇兵隊

長門国萩菊屋横丁にて萩藩大組士・高杉小忠太の長男として生まれる
15歳のとき明倫館に通う。
剣術は柳生新蔭流免許皆伝の腕前となる
19歳のとき松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに双璧となる
1860年、23歳のとき、井上政子と結婚する
1861年、幕府の上海使節団に入り、翌年、千歳丸に乗り上海に渡る
帰国後、尊王攘夷の道を選び、御盾組を結成し、イギリス公使館焼き討ちを実行する
しかし、これにより藩論も国勢も何も変わらず、そのことに焦れて頭を丸め東行と号するようになる
1863年、藩主に軍備立て直しを命じられ、西洋軍制に習う軍隊の結成を提案する
そして、尊攘志士を中心に身分を問わず志を同じくする者を集めた民兵部隊である奇兵隊を結成する
この奇兵隊に厳しい軍律を設け、訓練を行い、近代的な軍隊へと育てていった
第一次長州征伐では、藩の実権を保守派に握られていたため萩を脱して
北九州に渡り野村望東尼のもとに身を寄せる
しかし、形勢の挽回のため密かに長州に戻り、保守派政権打倒のクーデターを起こし保守派を一掃する
そして、新政権を樹立し、桂小五郎らと武力倒幕を掲げ、挙藩軍事体制の確立をはかる
1866年6月には海軍総督として、翌7月には下関海陸軍参謀として活躍する
しかし、結核による喀血を繰り返し、病状が悪化したため10月には辞任し、療養生活に入る
その翌年、結核により死亡する
享年29歳
辞世の句:「おもしろきこともなき世をおもしろく(すみなすものは心なりけり)」




鷹司政通<たかつかさ まさみち>(1789-1868)公家

1823年、関白となり摂政として朝議を仕切る
1856年、太閤として朝廷に隠然たる実力を持つようになる
内外の情勢に明るく、日米和親条約の際にはただ1人開国論を唱える
しかし、条約勅許には反対し、朝幕間の緊張を引き起こす
そして、安政の大獄で失脚し、落飾する
その後、許されるが、老齢のため隠居する
享年80歳




高橋多一郎<たかはし たいちろう>(1814-1860)水戸藩士

国友善庵に学び、徳川斉昭にその才能を認められ抜擢される
徳川斉昭が処罰されたとき、許しを得るための運動に加わったため処罰される
しかし、斉昭が復帰すると許されて、小姓頭となる
その後、水戸藩が内部分裂すると、激派に加わり、幕閣打倒を考えだす
そして、桜田門外の変での計画指導者となる
桜田門外で井伊直弼を殺害後逃亡するが、途中、大坂天王寺で自刃する
享年47歳




高橋泥舟<たかはし でいしゅう>(1835-1903)幕臣・遊撃隊

勝海舟、山岡鉄舟と並び、「幕末三舟」言われたひとり
山岡家に生まれ、槍術では神技とまで言われる程の使い手となる
山岡鉄舟とは義兄弟の間柄
25歳のとき、講武所の槍術師範となる
1863年、家茂に随行して上洛する
1866年、遊撃隊頭取に任じられる
その後、幕臣に官軍への恭順を説き、将軍慶喜に上野の大慈院で謹慎させる
1868年、遊撃隊を率い、慶喜警護の任に就く
維新後は、出仕せず、書画の道に進む
享年69歳




高松太郎<たかまつ たろう>(1842-1898)土佐藩郷士・海援隊

安芸郡安田村に生まれる。坂本龍馬の甥にあたる
武市半平太の土佐勤王党に参加し、勤王党のクーデター成功後
山内豊範を奉じ上洛し、三条実美や姉小路公知邸等に出入りする
その後、坂本龍馬に勧められて勝海舟の門に入り、海軍操練所で航海技術を学ぶ
そして、長崎で亀山社中に参加し、近藤長次郎とともに長州藩の武器艦船買い付けの斡旋などをし
海援隊発足後も隊士として活躍する
1868年、箱館府が設けられると、在勤し、蝦夷地経営の建白書を提出する
また、箱館戦争にも従軍し、軍功を立てる
1871年、坂本家を継ぎ、坂本直と改名する
享年57歳




高松凌雲<たかまつ りょううん>(1836-1916)医者

筑後国・久留米で生まれる
幕府奥詰医師・石川桜所に医学を学び、緒方洪庵の適塾で学問を学ぶ
その後、幕府の奥医者となる
フランス留学中に戊辰戦争が勃発し、その報を聞くと急いで帰国し、幕軍の軍医となる
箱館戦争では、野戦病院を開設し、敵味方関係なく治療にあたった
また、官軍との仲立ちとしても活動し、榎本武揚から託された「海律全書」を黒田清隆渡し
五稜郭開城のきっかけをつくる
維新後は、一開業医として過ごし、後に民間救護組織である同愛社を設立する
享年81歳




滝川充太郎<たきがわ じゅうたろう>(生没年不詳)伝習士官隊

戊辰戦争で伝習士官隊隊長を務める
新政府軍の箱館総攻撃で連日の激戦の中、幕府軍に彼の率いる部隊が投入される
そして、激しい銃撃戦が続く中、剣を抜いて斬り込んでいく




武田観柳斎<たけだ かんりゅうさい>(?-1867)新選組

出雲出身で前身は医者であり、また甲州流軍学を学んだ兵学者でもあった
1863年に入隊し、副長助勤として5番隊隊長等を務める
また、文学師範も兼任し、甲州流軍学の訓練を行う
将軍上洛要請と隊士募集のため江戸に下る近藤勇に同行したり、
長州訊問使に随行する近藤勇に伊東甲子太郎らと従うなど重用される
しかし、幕府の長州征伐が長州藩の洋式装備に敗北すると、その存在価値が下落したかのように映り
新選組から薩摩藩へと寝返る
その後、新選組から除隊し、討幕活動を行う
その結果、油小路竹田街道にて同志となっていた僧侶とともに斬殺される





武田耕雲斎<たけだ こううんさい>(1804-1865)水戸藩士

跡部新八正続の子として水戸で生まれる
藩主継嗣問題では徳川斉昭の擁立に尽力する
斉昭が藩主になると若年寄に抜擢され、尊攘派の指導者として活躍する
1864年、一橋慶喜に攘夷の実現を訴えるため、天狗党を率いて京都に向かう
しかし、慶喜がこれを討伐するために出陣したことを知ると
加賀・金沢藩に降伏する
翌年、斬首される
享年62歳




武市半平太<たけち はんぺいた>(1829-1865)土佐藩郷士・土佐勤王党

土佐国長岡郡仁井田郷吹井村で白札郷士の家に生まれる
幼い頃より文武に長じ、一刀流の千頭伝四郎や麻田勘七に剣術を学び免許皆伝を授かる
1854年、高知城下に道場を開く
1856年、江戸に遊学し、桃井春蔵の士学館に入り、鏡心明智流を学ぶ
翌年、塾頭となり後進の指導にあたる
また、徳永千規や島崎七助らに学問を学ぶ
1860年、再び江戸に向かい、桂小五郎や久坂玄瑞らと会い、
尊王攘夷と倒幕の計画を練り、土佐に帰国する
帰国後、土佐勤王党を結成し、その勢力を大きくしていく
那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵が吉田東洋を暗殺すると、土佐藩を思い通りに動かす計画を実行に移す
そして、藩論を勤王一色に塗り替える
また、京都藩邸に勤王党員を派遣し、活動させ、公卿を動かし、朝廷工作を行わせる
こうして、土佐藩政や京都での尊王攘夷の中心人物となっていく
そして、岡田以蔵等を使った暗殺による権力掌握で恐れられるようになる
1863年、山内容堂が藩の改革に乗り出し、勤王党に対する大弾圧を行う
武市も揚屋に入れられ、取調べを受けることになる
そんな中、岡田以蔵が捕縛され土佐に護送されてくる
以蔵が自白するのを恐れ、彼を毒殺しようとするが失敗
これに怒った以蔵が全てを自白し、1865年、藩命により切腹を言い渡され
腹を三文字に割いて果てる
享年37歳




但木土佐<ただき とさ>(1817-1869)仙台藩士

1858年、奉行となり、殖産興業政策により藩財政の立て直しを図る
この働きにより信任を得ることになり、藩の政局を担うようになる
そして、会津、庄内両藩の謝罪寛典策を推し進め、奥羽越列藩同盟の中核的役割を果たすようになる
しかし、現状認識が甘く、いくつかのミスを犯し
秋田藩を同盟から離反させてしまうことにしたりしてしまう
戊辰戦争後、腹心の坂英力とともに護送され 1869年、斬罪に処せられる




立見艦三郎<たつみ かんさぶろう>(1845-1907)桑名藩士・桑名雷神隊

1845年、伊勢で桑名藩士・町田伝大夫の3男として生まれる
そして、立見作十郎の養子となる
昌平坂学問所で学問を学び、風伝流槍術を学び、岡田豊前に師事し、兵法を学ぶ
そして、幕府の第3歩兵連隊の指図役となり、戊辰戦争では桑名雷神隊を組織し、隊長となる
80名弱の兵を率いて武勲を立て、その名を轟かす
しかし、その後、庄内、会津と転戦し、降伏する
降伏後、謹慎を解かれると、再び軍人となる
西南戦争では、旅団参謀副長として活躍する
その後も日清、日露戦争で活躍し、陸軍大将にまで昇り詰め、男爵の地位を得る
享年63歳




伊達宗城<だて むねなり>(1818-1892)宇和島藩主

幕臣・山口直勝の4男として、江戸に生まれる
父が宇和島藩主と従兄弟の関係であったことから伊達家の養子となる
1839年、水戸藩主徳川斉昭の娘・賢子と婚約する
しかし、賢子が死亡したため、翌年、肥前藩・鍋島斉直の娘・益子と結婚する
1844年、養父の跡を継ぎ、宇和島藩主となる
そして、「幕末四賢候」のひとりに数えられる程、国事に奔走する
藩政改革を積極的に推進し、殖産興業、富国強兵政策を展開する
また、まだ無名であった大村益次郎や、逃亡中の高野長英を宇和島に招き
宇和島の近代化を進めていった
1866年には、英公使パークスと通訳サトウを宇和島に迎え、
天皇を中心とする雄藩連合政権樹立の構想を提唱する
維新後は、外国事務総督、外国官知事、参議、民部卿、大蔵卿などを歴任する
享年75歳




伊達慶邦<だて よしくに>(1825-1874)仙台藩主

伊達斉義の次男として仙台城に生まれる
1841年、兄の後を受けて藩主となる
会津征討を巡り諸藩と会議を開き、嘆願書を拒絶されて抗戦に転じる
しかし、あくまで非戦派であり、これを貫くために奥羽諸藩の家老を集め、列藩同盟を結成する
奥羽越列藩同盟の総督となり、自ら討伐軍司令部へ使者として赴き戦争回避の嘆願を行う
しかし、会見に応じた世良修三にこれを一蹴され、全面戦争へと突入していく
会津落城の直前に降伏し、嫡子と共に謹慎、隠居する
その後、東京に移り住み、1874年に没する
享年50歳




田中光顕<たなか みつあき>(1843-1939)土佐藩郷士・陸援隊

高岡郡佐川に生まれる
武市半平太に師事し、剣術と学問を修め、土佐勤王党に参加する
1863年、京都に出て諸藩の志士と交わり、帰国後も国事に奔走する
8月18日の政変が起こると謹慎を命じられる
その翌年、脱藩し、長州へ入るが、藩論が佐幕派に押さえられ、大坂に脱出する
大坂では、本多大内蔵に匿われ、大利鼎吉を首領にし、大阪城焼き討ち計画を企てる
しかし、実行前に潜伏先をかぎつけられ、新選組に襲撃を受け、十津川へ逃亡する
その後、長州へ向かい、高杉晋作の知遇を受け、長州藩内で活動を始める
1867年、中岡慎太郎が京都で陸援隊を結成すると、幹部として招聘される
中岡慎太郎暗殺後、陸援隊を統率し、その年の12月に高野山に挙兵する
鳥羽伏見の戦いでは、錦旗を下賜され、紀州や大坂の動きを牽制する
維新後、新政府に出仕し、特命全権大使として岩倉使節団に随行する
帰国後も政府の顕職を歴任する
1907年、伯爵となる
享年97歳




田中新兵衛<たなか しんべい>(1841-1863)薩摩藩士

商家に生まれ、幼少の頃より剣を好み、示現流を独学で身につける
1862年、京都入りし、安政の大獄の実行者・島田左近を暗殺し、晒し首にする
この暗殺から京都における天誅の口火が切られることになる
この暗殺から約1ヶ月後、武市半平太と出会い、義兄弟の契りを交わす
そして、岡田以蔵と共に武市半平太のもとで暗躍するようになり
人斬りとして恐れられるようになる
1863年、尊攘派公卿・姉小路公知が暗殺され、その現場に田中の刀が残されていたため
嫌疑をかけられ捕らえられる
しかし、その逮捕に憤慨した彼は一言も釈明することなく、
取調べ中に切腹して果てる
享年23歳




田中土佐<たなか とさ>(1820-1868)会津藩家老

1829年に家を継ぎ、若年寄を経て、1862年に家老となる
1862年、西郷頼母とともに江戸に行き、藩主・松平容保に京都守護職の受命を辞退するよう進言する
しかし、容保の強い決意を知ると諦め、入京準備のため、それに先立って上洛する
1865年、病気を理由に会津に帰り、職を辞する
翌年、特命を受け京都に上る
そして、鳥羽伏見の戦いで陣将として戦うも敗れる
その後、土屋一庵宅で神保内蔵助とともに自刃して果てる
享年49歳




谷干城<たに たてき>(1837-1911)土佐藩士

土佐藩校教授館御用・谷万七の子として生まれる
少年の頃、江戸に出て、安井息軒に学び、遊学中の品川弥二郎や広沢真臣らと交わる
1861年、武市半平太と会談し、その後、国事に奔走するようになる
1867年、板垣退助とともに薩土両藩の倒幕の密約に関与する
戊辰戦争では、藩兵大監察として各地を転戦する
また、甲陽鎮撫隊の残党を捕捉し、近藤勇を処刑して鳥羽伏見で出遅れた土佐の地位の確保に成功する
1871年、御新兵編成のため藩兵を率いて上京し、新政府の兵部権大丞となる
1873年、熊本鎮台司令官に就任する
1877年の西南戦争では、熊本城を死守し、その名を馳せる
戦後、軍高官や大臣などを歴任し、欧化政策に反対する保守派として活躍する
享年75歳




玉虫三太夫<たまむし さだゆう>(1823-1869)仙台藩士

幼い頃に父が死んだため、兄に養育され、藩校・養賢堂で学ぶ
13歳のとき、仙台藩士・荒井東吾の嗣子となり、その娘を妻にするが
妻が死亡したため、家督を辞し、江戸に上る
そこで、儒学者の林復斎に学び、塾頭となる
1856年、箱館奉行に従って蝦夷地を踏査する
日米通商条約の批准にあたっては、咸臨丸に乗り込み渡米して文物を見聞する
帰国後、養賢堂で指南頭取となり、1865年、気仙沼の製塩所を設立する
その後、軍務局副頭取に就任し、米沢、会津などに赴き、奥羽越列藩同盟の成立に功をなす
仙台藩降伏後、北海道に向かう榎本艦隊に合流しようとするが失敗する
1869年、捕らえられ、切腹を命じられる
享年47歳




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