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藤堂平助<とうどう へいすけ>(1844-1867)新選組

自称、藤堂和泉守の落胤
千葉道場で北辰一刀流を修め、目録を得る
後に試衛館に出入りするようになり、その縁で浪士組に加わって上洛する
その後、新選組に移り、副長助勤として池田屋事件などで活躍する
伊東甲子太郎が新選組に入隊してからは次第に彼に傾倒していくようになる
そして、伊東らが新選組から分離する際に共に離脱し、高台寺党を作る
伊東が油小路で暗殺され、同志と共に現場へ急行したところを
待ち伏せしていた新選組に襲われる
藤堂を見逃すように命令されていた永倉新八に一度は救われたが、
近藤の命令を知らなかった他の隊士に斬られ、絶命する
享年24歳




時山直八<ときやま なおはち>(1838-1868)長州藩士・奇兵隊

阿部群山田村で生まれる
17歳の時、吉田松陰の門人となる
その後、奇兵隊の参謀となり活躍する
同じ足軽出身の山県有朋とは仲が良かったらしい
1868年、長岡戦争で、山県から預かった遊撃隊を率いて戦い
2つの陣地を占領する活躍をするが、銃弾に当り戦死する
享年31歳




徳川昭武<とくがわ あきたけ>(1853-1910)水戸藩主

徳川斉昭の18男として江戸駒込水戸藩別邸で生まれる
1864年、禁裏南門守備の任に就き、禁門の変で京都警衛の功を賞され、民部大輔となる
1867年、パリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として渡仏する
その後、イタリア、イギリス、スイス、ベルギーを親善訪問する
パリ留学中に大政奉還がなされたことを知り、帰国する
帰国直後、蝦夷征討の命を受ける
明治に入ってからは、長年にわたり明治天皇に奉仕する
その後、茨城県で牧場を開き、植林事業にも尽力する
1908年、腎臓手術のため順天堂に入院、その2年後死亡する
享年58歳




徳川家茂<とくがわ いえもち>(1846-1866)紀伊藩主・徳川14代将軍

井伊直弼を中心とする南紀派の運動により、1858年に将軍となる
その時、名を慶福から家茂に改名する
井伊直弼が桜田門外で暗殺されると幕府の姿勢が佐幕から公武合体へと変り
孝明天皇の妹である和宮を妻とする
1864年、朝廷から庶政委任を受けようと上洛する
1865年、第二次長州征伐のため、大阪城入りする
この翌年、戦いの中病に倒れ、征伐軍が敗走する中、大阪城にて病死する
享年20歳




徳川斉昭<とくがわ なりあき>(1800-1860)水戸藩主

水戸藩主徳川治紀の三男として江戸屋敷で生まれる
会沢正志斎に水戸学を学ぶ
30歳の時、藩主となる
藤田藤湖らの人材を登用し、藩政改革を推進する
また、熱烈な尊王攘夷論者であり、幕政にも積極的に参加し、
幕府の弱腰な外交に対して痛烈な批判をしたりした
1859年、井伊直弼と対立し、蟄居させられる
その翌年死亡する
享年60歳




徳川慶篤<とくがわ よしあつ>(1832-1868)水戸藩主

徳川斉昭の長男として生まれる
1844年、斉昭が蟄居させられるとその後を継いで藩主となる
1850年、幕府の違勅条約調印に抗議するため登城するが
不時登城を咎められて登城停止処分を受ける
1863年、許されて勅命により入京し孝明天皇の行幸に随行する
そして、将軍目代として、外交拒絶の命を受け江戸に帰る
1864年、天狗党の乱が起こり、これの鎮圧を試みるも失敗する
1868年、王政復古派藩士の後押しで水戸に帰るがその直後死亡する
享年37歳




徳川慶勝<とくがわ よしかつ>(1824-1883)尾張藩主

尾張藩分家美濃国高須藩主松平義建の次男として江戸四谷藩邸で生まれる
弟である一橋茂徳、松平容保、松平定敬らとともに「高須4兄弟」と呼ばれる
慶勝は高須家を継ぎ、1849年には、尾張徳川家の家督も相続する
藩主となると、幕府と結びついた家臣の力を徐々に弱め、
人材登用、財政改革、海防の充実等の藩政改革を行った
その中でも特に海防には力を入れ、軍事力を充実させた
日米通商条約の調印では反対して鎖国攘夷を唱え、
将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推し、井伊直弼と対立する
しかし、井伊が大老に就任し、一橋派が敗北すると、弾圧を受け、引退を余儀なくされる
1862年、和宮降嫁の大赦で政治参加を認められる
1863年、藩主・義宜の後見人になると、再び藩の実権を掌握し、精力的な活動をする
長州征伐の際には総督に指名される
この時、長州に寛大な措置を取るのだが、幕府の不興を買うことになる
王政復古の大号令の直後、朝廷か幕府のどちらにつくか決断を迫られ
立場に苦しむも、佐幕派家臣を処断し、倒幕側につく
そして、朝廷の命を受け、甲信地方を平定すべく出兵する
明治以降は、名古屋藩知事、徳川宗族長等を務める
1880年、隠居し、その3年後死亡する
享年60歳




徳川慶喜<とくがわ よしのぶ>(1837-1913)徳川第15代将軍

徳川斉昭の七男として、江戸小石川の水戸藩邸で生まれる
斉昭の厳しい教育もあって、幼少の頃から聡明な子として名高かった
13代将軍家定の次期将軍候補として井伊直弼を中心とする南紀派と争うが、負けて
安政の大獄によって謹慎の身となる
しかし、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、松平慶永が力をつけると
将軍後見職として中央政権に力を伸ばしはじめる
禁門の変では、松平容保率いる幕府軍を指揮して長州勢の入京を阻止する
そして、家茂が20歳の若さで亡くなると、将軍の座につく
1867年、薩長に討幕の密勅が出されたことを事前に察知した慶喜は
山内容堂の勧めもあり、「大政奉還」をし、政権を朝廷に返上する
その後、鳥羽伏見の戦いが勃発し、抵抗するも敗れる
はじめ大阪城にて徹底抗戦の構えを見せていたが、勝算がなくなると大阪城を脱出し
江戸に逃げて、上野寛永寺大慈院に引きこもる
江戸無血開城後、謹慎のまま水戸に移る
その後、駿府に移り、戊辰戦争が終わると謹慎も解かれる
1902年、公爵に任ぜられる
写真撮影などの趣味に興じるなどをして平穏な晩年を過ごす
享年77歳




戸田雅楽<とだ うた>(1842-1918)三条家家臣

1842年、山城国西院村の郷士として生まれる
三条実美に従い、尊攘運動に参加する
尾崎三良という名であったが、1863年8月に三条の失脚に伴い
長州、太宰府に下った時に戸田雅楽と改め、諸藩の使者に応接する。
また、晩年の竜馬と行動を共にしており、
大政奉還後の政治改革について構想する
維新後はイギリスに留学し、太政官に出仕する
後に実業家となる
享年76歳




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