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上杉斉憲<うえすぎ なりのり>(1820-1889)米沢藩主

上杉家12代斉定の子として生まれる
戊辰戦争が勃発すると、松平容保の赦免を願い出たが聞き入れてもらえなかった
また、官軍参謀・世良修蔵が暗殺されたのを知ると
白石に東北諸藩の重臣を集め、奥羽越列藩同盟を結成させ、新政府軍と激突する
しかし、長岡城が陥落し、家老の色部長門が戦死すると、弱腰になり
全軍に撤退命令を出し、会津若松城を見捨てて、官軍への降伏を申し出る
この後、奥羽追討の先鋒を買って出て米沢藩の処分を軽くさせた
享年69歳




上野彦馬<うえの ひこま>(1838-1904)写真家

長崎町人・上野俊之丞の四男として生まれるが、実質的には長男として育つ
12歳の時、父が亡くなり家督を相続する
広瀬淡窓の私塾「咸宜園」で4年間学んだ後、長崎に帰り、オランダ語を名村八右兵衛に習う
また、1858年、家業を継ぐために化学の勉強を志し、海軍伝習所の中に設けられた医学伝習所に入門する
そして、医学研究所の一室にあった化学の研究所に入り、研究を続け、苦心の末に自作のカメラで撮影に成功する
その後、長崎に帰り、中川島に撮影局を開業する
そこで、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎ら志士の写真を撮る
1874年、金星観測の天体写真撮影に成功
1877年、西南戦争の状況を撮影する
享年66歳




梅田雲浜<うめだ うんぴん>(1815-1859)小浜藩士・学者

若狭国小浜城下に生まれる
8歳の時、藩校・順造館に入学し、崎門学を学ぶ
1829年に上京し、崎門学派の塾・望楠軒に学ぶ
翌年、江戸に遊学し、山口菅山に入門する
1840年、帰国するが、その翌年、再び京都に行き、そこで湖南塾を開く
後に望楠軒塾の講師に迎えられ、崎門学者として世に知られるようになる
彼は、藩政や海防に関する意見書を藩主に送ったが、藩政批判と受け取られ
1852年、士籍を剥奪され、浪士に落とされる
ペリー来航後、梁川星巌とともに、京都における尊王攘夷派の中心人物となる
将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立する
しかし、1858年、井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、京都の六角獄に収監される
江戸に送られ、激しい拷問にかけられるが、その取調べの途中病によって死亡する
享年45歳
辞世の句:「君が世を思う心の一筋にわが身ありとは思わざりけり」




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