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横井小楠<よこい しょうなん>(1809-1869)肥後藩士

肥後藩上士の家に生まれる
藩校時習館で勉学に励む。はじめから才覚があったわけではなく、努力型の秀才であったらしい
やがて時習館の塾長となり、1839年に江戸に遊学し、
そこで藤田東湖らと交わることで尊攘思想に傾倒していくようになる
酒の席で失態を犯し、帰国した後、家老・長岡堅物の後援を受け、
実学党を組織し、藩政改革に着手する
1858年、彼の見識の高さに心酔した松平春嶽の招きに応じて福井藩の改革に参画する
そして、松平春嶽が政治総裁職に就任すると、これを江戸で補佐した
1862年、12月に3人の刺客に襲われたが上手く逃げる
しかし、この暗殺未遂事件で士道忘却の汚名を着せられ、身分を剥奪され社会から葬り去られる
その後、越前藩に身を寄せ、雄藩連合によるクーデターを計画するも挫折する
それから活動家を引退し、自分を訪れる志士達に助言を与える立場となる
明治になってからは、政府に入り、制度局判事を経て参与となる
1869年、京都で再度刺客に襲撃される
飛び掛かってきたところを、とっさに駕籠に隠れ、短刀で防ぐが
老体であり、かわしきることができず、暗殺される
享年61歳




吉井友実<よしい ともざね>(1828-1891)薩摩藩士

1859年、誠忠組に参加し、西郷隆盛、大久保利通らと交わり国事に奔走する
1867年、板垣退助らと討幕の計画をすすめ、戊辰戦争で功を挙げる
維新後、元老院議官、枢密院顧問官、宮内省次官等を勤める
日本鉄道会社の初代社長でもある
享年64歳




吉田松陰<よしだ しょういん>(1830-1859)長州藩士

下級藩士・杉百合之助常道の次男として生まれ、幼少の頃、吉田賢良の養子となる
吉田家は山鹿流軍学の師範を勤める家柄であった
5歳の時、養父が亡くなり家督を相続する
8歳の時、明倫館に入り教授見習いとなり、10歳の時、講義を行う
18歳の時、兵学家として自立し、藩校制度改革の建白書を提出する
その後、江戸に遊学して、兵学、国学、朱子学、陽明学を学ぶ
また、佐久間象山に西洋兵学も学ぶ
象山に知識を吸収するために海外渡航を勧められ、黒船密航を企てるが失敗する
松陰は自首し、自ら罪人となり、萩の野山獄で幽閉生活送ることになる
やがて出獄し、蟄居のみとなり、松下村塾を開く
そして、この松下村塾から多くの優秀な人物を輩出することになる
松陰の教えは年を追うごとに過激化していき、急進的な尊王攘夷派となり幕閣批判を行う
高杉晋作や久坂玄瑞らの説得にも考えを変えようとせず、幕府から危険人物とみなされる
そして、安政の大獄によって極刑に処せられる
享年29歳
辞世の句:「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」




吉田東洋<よしだ とうよう>(1816-1862)土佐藩士

高知帯屋町に生まれ、正式な名を吉田正秋という。東洋は雅号
若くして郡奉行、船奉行等を勤める
1853年、山内容堂に認められ、大目付に登用され、間もなく参与に抜擢される
1854年、江戸の酒席で容堂の血縁を殴ったことから土佐に追還され、
家禄没収、城下禁足の処分を受ける
そして、蟄居先で私塾を開き、そこで後藤象二郎、板垣退助、福岡孝弟等を指導する
1857年、許されて再び参与に戻ると藩政改革を推し進め、
容堂の全面支援を受けることに成功する
土佐勤王党の武市半平太が東洋を訪ね尊王攘夷論を説くが聞く耳を持たなかった
武市は東洋失脚を謀るがうまくいかず、ついに暗殺を企てる
藩主への進講を終え、雨の夜の中、家路に向かう途中、
土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の3人に襲われ死亡する
享年47歳




吉田稔麿<よしだ としまろ>(1841-1864)長州藩士

萩の足軽の家に生まれる
1856年、松下村塾に入門し、松陰四天王の1人に数えられる
松陰の遺志に従って、被差別民からなる屠勇隊を設立し、倒幕運動に邁進する
1864年、池田屋にて新選組に襲われる
この時、稔麿は襲撃を受ける前にいったん集会から席を外し、長州藩邸に戻る
そして、2時間後、再び池田屋に向かおうとすると
幕吏が池田屋周辺を取囲んでいて、途中の加賀藩邸の門前で乱闘となり
終に討死してしまう
享年24歳
辞世の句:「結びてもまた結びても黒髪の、乱れそめにし世をいかにせん」




吉見左膳<よしみ さぜん>(1817-1875)宇和島藩家老

1843年、目付兼軍使となり、伊達宗城が藩主になると側近となり密議に参画する
将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立を図るが安政の大獄で逮捕され重追放の処罰を受ける
この不祥事から吉見から伊能に改姓させられる
1862年、大赦され、宗城に従って上京し、彼の片腕として働く
パークスが宇和島に訪問した時は応接主任を務める
1868年、執政となり、藩政改革を指導する
1870年、退隠する
享年59歳




吉村寅太郎<よしむら とらたろう>(1837-1863)土佐藩農民・天誅組

土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる
1849年、父の跡を継ぎ、庄屋となる
1861年、土佐勤王党に加盟し、その翌年、武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞と会見する
その後、久坂に感化されて脱藩し、志士として活動をはじめる
寺田屋事件に関係して薩摩藩に捕まり、土佐に送られて入獄する
そして、許されると再び脱藩する
1863年、大和行幸が決まると、明治天皇の叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜け
大和に入り、天誅組を結成する
五条代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置いた
しかし、8月18日の政変により、尊攘派が中央政界から追い出され、後ろ盾を無くす
その後、十津川に逃げてそこを根拠地とし、高取城を攻めるが敗れる
この戦闘で重傷を負って逃亡し、吉野郡高見村鷲家口に隠れるが、
そこも襲撃され、逃げ場を無くしその場で自刃する
享年27歳




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