幕末維新裏話


幕末の頃にあったちょっとした裏話です。


星になった龍馬とおりょう
幕末とは直接には関係ない話ではあるが
夜空にたくさん見える小惑星。
この小惑星には、いろいろと名前が付けられているのだが
その中に、「坂本龍馬」と「おりょう」という名前の星がある
登録番号:2835「Ryoma」(竜馬)
登録番号:5823「Oryo」(おりょう)
ちなみに、新選組という名の星もあったりする
登録番号:5815「Shinsengumi」(新撰組)


口下手
老中・堀田正睦は口下手であった。
口下手であっても、老中の職務には特には支障はなかったが、
二度目に老中となったとき、ハリスとの応接があり大変だった。
しかし、堀田は自身の口では挨拶程度で済ませ、実質的な交渉は、目付の岩瀬忠震に任せた。
岩瀬は口が上手く、ハリスが起草してきた通商条約案の隙をつき、悩ませた。
そんな感じでうまくやっていたのだが、条約勅許を得るため上京した時にはこのコンビも効力を発揮しなかった。
というのも、京都の公卿は官位の格式が高いため、目付の身分では面談して議論という訳にはいかず
老中でようやく対等に近い処遇を受けることができるが、
自分が公卿を前に弁を振るう必要になるとは思ってなかった上、口下手であった堀田には相手を説得することができなかった。
条約勅許を獲得できなかったのは、これだけが原因という訳ではないが、
弁の立つ老中であれば公卿達をやりこめ、局面打開の方法が見出せてたかもしれない


美人でなくとも・・・
長州藩士・久坂玄瑞は、18歳の時、松陰の妹の文(15歳)と結婚をしたのだが、
久坂は最初はこの文との結婚はあまり気がすすまなかったという。
それは文があまり美人ではなかったということもあった。
しかし、ある日、友人から
「お前は嫁を貰うのに容色をとやかく言うのか!?つまらぬ男だ」
と言われたので、つい
「そんなことはないぞ!もらってやる!」
と言ってしまった。
そんなこんなで文と結婚した訳だが、久坂は結婚してからも国事に奔走していたため
文と暮らした期間はほんのわずかであった。


一難去って大災難
肥後の志士・宮部鼎蔵は、京の宿に枡屋喜右衛門の営む「枡屋」を使っていた。
そこは京の街の中心といっていい場所で、連絡場所としてちょうどいい場所であった。
しかし、1864年6月5日、この枡屋は突如、新選組に襲われた。
宮部はこの日はたまたま他所の宿に泊まっていたため難を逃れたが、
この宿の主人・喜右衛門が連れて行かれた。
この喜右衛門は実は同志の古高俊太郎であった。
その後、たまたま難を逃れた宮部は事後対策を練る為、池田屋で会合を組織するも、
池田屋事件という大災難に遭い自刃することになった。


天下の糸平
池田屋事件の発覚のきっかけとなったのは、古高俊太郎の捕縛であるが
この古高が新選組に囚われていることを探り出し、志士達に通報したのが天下の糸平こと田中正八という人物である
彼は生糸や製茶で生計を立てていたが、池田屋事件の頃は、茶を積んだ船の沈没により莫大な借金を背負っていた
その苦しみの中で、勤王の志士と交わり国事を論じていた
また、俺が出ねばという器量があり、「天下の糸平」というあだ名もここから付けられている
そんな彼は、新選組の池田屋討ち入りの時には吉田稔麿の密書を携え、危うく裏口から脱出する
そして、のちに新選組が甲陽鎮撫隊として甲州に向かった時、
そこにたまたま通りあわせた彼は、官軍に間道を教えたり、新選組の模様を知らせるなどの密告をし、
池田屋事件での仇を報じる
また、彼は、武田耕雲斎の筑波山での義挙や、彰義隊の乱にも参加しており
特に、彰義隊参加のときは、彰義隊の隊長に「おまえは天成の軍人だ」とまで言われた
しかし、彼は軍人になることはなく、商人として成功し、明治の商業の世界にその名を残した


貧窮組
1866年、江戸において取締の不行届けに乗じ「貧窮組」が旗揚げされた。
何者が始めたのかは不明であるが、この組は自然に盛り上がっていった。
この組は、菰の旗を押し立てて、何百人という男女がグループになって市中を押し歩いた。
そして、四つ辻や角に大釜を据え、物持ちの家からお米や野菜や金等を貰って粥などを作り、
食べ終わると、時の声をあげて他の町内へ繰り込んでいった
ただ食べ歩くというだけで乱暴はしなかった
これが一種の流行となり、ついには中流以下の家に強制的な誘いが来るようになった
やがて、職人は職人同士という職能別組合まで結成されるようになる
このようにして変なムードで盛り上がっていったある日
どこからともなく貧窮組が集まり、やがて大部隊となり、馬場町の油屋の打ち壊しから始まり
様々な町家を40軒ほど壊すとすぐ解散してしまった
そして、これと同じようなことが他の方面でも発生し、大暴動が起きた
この事態に幕府は、町会所から1人につき一貫匁を支給、百文につき米2合5勺を払い下げると予告した
しかし、これが実行されなかったので貧民が蜂起し、米屋、味噌屋等を襲撃し、
これが各方面に広がり、各所で打ち壊しが行われた
そこでやむなく幕府はお救小屋を建て、米を施した
この一連のことは、内外施政者に、国政混乱が直ちに民衆蜂起に導くという教訓を与えた


最強の豆腐屋
幕末の江戸にに山口一郎という豆腐屋を営む男がいた。
その店の近くに蒔田広孝という幕臣の屋敷があり、蒔田は山口のお得意様だった。
お得意様だという気安さからか、山口はこの蒔田に「お殿様のお役に立たせて下さい」と頼み込んでいた。
その後、見廻組の支配役に任ぜられた蒔田は京に上洛することになった。
このお供に志願した山口は商売を捨て、憧れの京に上った。
しかし、そこで山口が見たものは禁門の変で修羅場と化していた現場だった。
この現実に山口はキレた。
この日のためにと鍛練し続けていた剣をあちこちで振るい、長州系の志士を鬼神のごとく斬りまくった。
これには見廻組幹部も驚いたという。
しかし、見廻組は幕臣の集団なのでいくら活躍しても山口を見廻組には入れてやることはできなかった。
そこで見廻組幹部は山口に新選組に入隊することを勧めたが、山口はこれに応じなかった。
その後、結局山口は江戸に戻り、豆腐を地道に作って暮らしたという。


新選組から二度脱走した男
新選組隊士・阿部十郎。
この人物は、新選組の中でただ一人、新選組を二度脱走している。
一度目は、池田屋事件の前、男色が隊内に流行し、
不逞浪士の追補のみに奔走する現状等に失望し、数名脱走していったなかに彼はいた。
脱走後は大坂に潜伏していたようだ。
その後、新選組は池田屋事件で大戦果をあげ、より強大になっていき、
その新選組の威名に、新入隊士が増えていった。
そんな中、阿部十郎は、この池田屋事件の二ヶ月後、ツテを使って無事に新選組に復帰し、
伍長、砲術師範役など、幹部の道を進んでいったのである。
二度目は、伊東甲子太郎が御陵衛士を名乗って、隊士15名と共に独立した時である。
この15名の隊士の中に、阿部十郎もいた。
その後、御陵衛士から赤報隊として戊辰戦争を戦い、明治40年まで生きた。
また彼は、伏見墨染において、近藤勇を狙撃して傷を負わせている。


因縁の対決
新選組三番隊隊長・斎藤一と十津川郷士・中井庄五郎。
この二人は、幕末の京洛において、偶然に2度も斬り合いをした。
1度目は、池田屋事件の3年後の1867年の正月のことである。
中井は酒宴の帰途に、たまたま四条大橋の上で、沖田総司、永倉新八、斎藤一の3人とぶつかり、乱闘の末、無傷で逃走した。
新選組でも屈指の3人を相手に戦い無傷で生還できた中井はラッキーだったとしか言いようがない。
2度目は、その年の12月であった。
中井は尊敬する坂本竜馬を暗殺した黒幕であると疑っていた人物の宿舎に海援隊士達と共に斬り込んだところ、
斎藤一率いる小隊と衝突した。
ここで中井は斎藤に斬殺されたのだが、襲撃した中で殺されたのは彼だけであった。
また、中井は池田屋事件の翌朝、屯所へ帰陣する隊士達と遭遇し、その中のある1人の隊士とにらみ合ったという。
このにらみ合った新選組隊士というのも斎藤一だったのであろうか。


土方の冗談
新撰組が京都にいた頃、郷里の天然理心流の道場に
「素晴らしき貴きものを御一同に送る」と書かれた小包みが土方から届いた。
門人達が「何だろう」と封を開けてみると、その中には恋文が。
それも、京や大坂の遊郭の女性達が土方宛てに送った恋文が数十通も入っていた。
門人達は「歳さんに一本取られた」と笑いあったといわれている。
鬼の副長と言われた土方も本来は陽気で冗談が好きな人物であったようだ。


石けん
かの榎本武揚は箱館戦争の後、処分が出るまで牢に繋がれていた。
彼はこの間に焼酎、チョーク、西洋ロウソク、硫酸、メッキ等、様々な物の 製法技術書を著している。
そして、これらの中で家族に送った石けんの製法は、その親戚の者が読んで家業とし、大成功を収めた。
そして、これが現在の有名化粧品会社である「資生堂」のはじまりとなったのである。


旧幕軍が箱館を占領できた背景
江戸を脱走した幕府残党が箱館を占領に向かった時のこと。
官軍の食料は握り飯であったため、北海道の厳しい寒さの中で凍ってしまって野外では食べられない状態であった。
そして、これに対し旧幕府軍はパンを食料として装備していた。
このパンは現在のようなパンとは違い、水分がほとんどなく、いわゆるカンパンやビスケットのようなものであった。
このパンは寒さの中でも凍ることはなかったため、旧幕府軍は、野外でもかじりながら行軍することができたのである。
旧幕府軍が箱館を占領できたのには、このパンがあったためともいわれているのである。


妖怪
幕臣に鳥居耀蔵(ようぞう)という人物がいたが、彼は「妖怪」と言われて恐れられた。
彼はデッチあげや謀略で、気に入らない人物を失脚や死に追いやったりしていた。
そんな彼は南町奉行にいたとき「甲斐守」に任じられた。
しかし、彼の他にも「甲斐守」を名乗るものがいたため、「耀蔵の甲斐守」と言われるようになり、
それが縮まって「耀甲斐(ようかい)」「妖怪」と言われるようになった。
これが、今、使われている「妖怪」の名のもとでもある。


仇同士の結婚
明治になって、薩摩出身者と会津出身者との間で一組の夫婦が誕生した。
その夫婦とは大山巌と山川捨松のことである。
先に熱をあげたのは、薩摩出身者である大山巌の方であった。
その相手は会津出身の山川捨松という女性。彼女はアメリカに留学したことがあり、英語が堪能。
そしてテニスが上手。その上、細身で美人であり、上流社会の貴婦人のような人であったという。
洋風好みな大山はこの女性はもろタイプだったのだろう。
しかし、彼女の実家は、会津藩の重臣の家柄で、仇である薩摩出身の大山との結婚をどうしても認めてくれなかった。
それでも諦めきれなかった大山は、財政会の友人に働きかけることで、ようやく念願を果たしたのであった。



黒船攻略法?
幕府は、ペリーの開国の要求に大名をはじめ、庶民にも意見を求めた。
そうしたところ、かなりの数集まったのだが、そのほとんどが「特に意見はありません」といったものばかりであった。
そんな中、とある遊女屋主人の藤吉という男が願書の形で次のようなことを本気で言ってきた
「決死隊を募り、最初は漁師が魚を捕っているフリをして、だんだん黒船に近づき、外国人の好みそうな品を贈って仲良くなる。
そして、酒もふんだんに差し入れして良い気分にさせれば、上船を許すだろうから、こちらも一緒に飲んで騒ぐ。
そのうちあちらは酔いつぶれる。その時を狙って、隠し持った包丁で異人どもをメッタ切りにし、
火薬庫に火をつけて爆発沈没させれば成功間違いなし」
幕府は意見を求めなかった方がよかったのかもしれない・・・。


薩長軍に利用された市民
鳥羽伏見の戦いで、慶喜が大坂城を脱出した後、薩長軍は大阪城に乗り込んだのだが、城内には入らなかった。
それは、薩長軍は城内に地雷が仕掛けられていることを知っていたからである。
そこで、『大坂城内には誰でも入れる。こういう時でないと見学はできない』というような内容のお触れ書きを大坂市民に出した。
そこで、物見高い者達は城内にくりこみ、物品を強奪したが、薩長軍はそれをとがめようとはしなかった。
そうこうしているうちに、地雷が爆発して大勢の人が死んだ。
それを見た薩長兵達は大阪城への入城を禁止し、奪った品物を返せと布告した。
結局、地雷の瀬踏みのために大坂市民が利用されただけだった。
味方の将兵を見捨てた慶喜も酷いが、市民の命を利用した薩長もけっこう酷いものがあるような・・・。


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