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正法寺の歴史

往生院 の額 【三井寺塔頭日光院前大僧正 尊a猊下筆】

 

正法寺の創建は、凡そ千二百年前に遡らねばなりません。つまり、弘法大師より百年余り前、すでに建立されていたことになります。従って、正法寺の歴史はそのまま大生院(往生院)の歴史でもあります。平安初期の文献に記載されているように、当地方(神野郡)は東大寺の穀倉地であり古くから重要な土地であったことが伺えます。そして、この地の人々の菩提寺として、

布目瓦と泥塔

往生院という七堂伽藍を有した大寺が存在したことが示されております。近年、その史実に基づいて正法寺前の田を発掘した所、泥塔が発見され、文献の裏付けとなりました。このように、正法寺は長年に亘り、人々の心の支えとなりながら、当地の発展を見守ってきたわけであります。現在の正法寺本堂は、元禄年間に京都御室派(仁和寺)の末寺となり、現地へ移転建立されたものです。

 

正 法 寺 史


笹ケ峯は新居浜の西南、1860m(四国第三位)の高山です。この山は伊予の高嶺と呼ばれ、登山史上、加賀の白山、大和の大峯山などのように古くからの聖山です。寺伝や大生院村庄屋文書によると古く平安時代から正法寺が別当となり、頂上に石鉄大権現を勧請して、修験道の道場として栄えたとあります。以下それらの由緒について述べてみたいと思います。正法寺は別名往生院とも呼ばれ現在の大生院の呼び名は、寺名から出たものであり、今でも本堂の額に「往生院」と書かれています。境内は昔、寺の前の田んぼ一帯がそうであったということです。その広きは東西約100m、南北約500m、約五町歩の面積でした。奈良時代寺院と称すれば中門・金堂・講堂・鐘楼・庫裏等、いわゆる七堂伽藍が立ち並び必ず瓦でもって葺かれていたものです。今も田の字名に中門・鐘楼堂・蓮池などの地名が残っています。また境内に聳えていた銀杏が今も残っており、所在の地区名を銀杏木と呼んでいます。古くから附近の田の中から古瓦や仏塔・陶片が沢山出土し、これらの年代を調べてみると、奈艮朝末期から鎌倉初期にかけて各種のものに及んでいます。瓦の種類は単弁式蓮華紋、忍冬唐草紋、宝相蓮華紋瓦、宝連花紋唐草瓦等各種に及んでいます。いずれも優美な作品で美術的価値の高いものです。考古学の上から見ると、平安京が造営された当時の瓦の手法とよく似ています。天正時代豊臣秀吉の四国進攻の際の兵火によって殆んどが焼失し、それを語る文書等が残っていません。考古学的資料や、中央の文書等によって類推して見るより他に方法がないのは残念なことです。

秦 氏 と 正 法 寺

大寺院が何故、誰によって建てられたのでしょうか。 奈良朝時代この地方には朝鮮から海を渡って渡来した帰化人が住みついていました。彼等は秦の始皇帝の子孫であると称し、秦氏と名のっており、彼等は優れた中国の文化を身につけ土着の人々から聖王と呼ばれ尊敬されていました。今でも正法寺の裏山に「聖王宮」という鎮守きまが祀られており、「王さん」と呼んで地方民の信仰を受けています。彼等は農耕、養蚕、綿織物、土木建築等の高等な技術を身につけ、地方の産業を開発して、次第に富を蓄え、その地方の豪族と化していきました。当時朝廷ではこれらの帰化人を保護して、一部は中央官僚として登用し、一部は地方へ分遣して、地方の開発に当らせました。日本に仏教を伝えて、深くこれを尊信し、氏寺として各地に仏塔を建立しました。奈良朝時代この地方の郡名を神野郡(かんのぐん)といいました。神野郡内に勢力をはった奉氏の一族の中から宮中に仕えた女性がいました。後の名君主と呼ばれた嵯峨天皇の幼時の乳母をつとめ、その功績によって、賀美野宿禰(かみのすくね)の称号を賜ったことが続日本記という古い書物に出ています。嵯峨天皇は幼名を乳母の名をとって賀美野親王と言い、郡名が同じ呼び名では恐れ多いというので新居郡と地名かえたということです。この賀美野宿禰が退官して当地に帰郷し、天皇の許しを得て、秦氏の氏寺として建てたのが正法寺だといわれております。

正 法 寺 の 盛 衰

その当時今の小松町に法安寺という大きな寺があって、今でもその跡は牡丹の寺として有名です。その寺には灼然という高僧がいてその弟子に上仙という修行僧がおり、その出身は神野郡の秦氏であったということです。上仙は日本霊異記によると、浄行を積んだ功徳によって後に嵯峨天皇に生れ変ったという有名な伝説がある人です。正法寺はこの上仙を開基として、同族の秦氏が氏寺として、建立したと言われております。又上仙が山上に止まって修行を積んだ山は笹ケ峯であるといわれています。山岳宗教が発達し、多くの修験者が参集し、笹ケ峯が栄えたのは平安時代から鎌倉初期頃までであったようです。その後室町に入りその信仰形態が次第に、瓶ケ森、石鎚山と西方の高山に移ったようで正法寺の盛運もそれを外護した秦氏勢力が次第に衰え、荘園時代から武家時代と歴史の変遷に従って共に衰微したということです。時代が下って天正年間豊臣秀吉が四国に功め入った時、在地の豪族連合との激戦があり、当地の豪族 高橋伊賀守も連合軍の一員として、遠征軍と戦った時、正法寺も戦禍に巻さ込まれて焼失しました。その後渦井川の洪水などがあり境内が流出したので、元禄時代、中興で讃岐の人である秀師上人により現在地に移転再興されたものになります。


江戸期の正法寺

今を去る、450〜500年前応仁の乱頃は讃岐細川氏、伊予河野氏が新居、高橋氏をまき込んで、宇摩、新居、周桑郡一帯を戦域として戦ったので、正法寺も戦禍に過い、護法、維持に困難をきわめたということです。降って戦国時代、豊臣秀吉が四国、長曾我部元親を攻めた天正の陣において、秀吉の派遣軍中国の吉川、小早川連合軍は今の桜井浜に主力を上陸させ、周桑、新居浜両部の石川、金子など郷土連合軍を高峠、高尾の城に攻めたので、西条、新居浜は主戦場となり、所在の金子城等ことごとく攻略され落城のうき目を見たのです。又、付近の神社、仏閣も残らず灰盤に帰しました。この時正法寺も堂宇、仏像、什物等ことごとく焼失したと庄屋文書に書かれています。 又、後年元禄年間にも失火により全焼し、その跡かたもとどめることが出来ませんでした。その後数回に亘る渦井川の氾濫等もあり、平安年間から連綿として続いた境内地を放棄して現在の山裾に移したのです。移転は元禄年間に讃岐塩飽高見島の人、秀師上人によって行われました。薬師堂は享保三年(1718)今から262年前、真信上人の手によって行われた。棟札には「奉建立薬師堂一宇」総檀中と誌され、大工、新左衛門、七左衛門、小工七人、木挽四人、賄五郎兵衛とあります。又施主高橋甚五衛門、組頭曾我部七兵衛、天野九右衛門、大壇那庄屋高橋六兵衛となっています。当時としては檀家あげての大事業でした。本堂の再建はそれから後れること107年目の文政八年(1825)智雄上人の時代になります。棟札には「奉再建本堂一宇」現住、沙門権大僧都智雄代と書かれています。大壇那庄屋高橋大助とあり、総檀中が寄進やら奉仕で敬仏の誠を尽して、再建されたもので旧本堂上段の間の作りは近代の名作であり、当時建築に当った大工の誠意と優秀な技術がしのばれます。

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