鳥生姓のルーツ

 全国700人??の「鳥生」姓の皆さんはじめまして。
愛媛県越智郡波方町に住む鳥生といいます。
各地には驚くような姓があり、それに比べると「鳥生」というのはそれほど珍しい方ではありませんが、一般的な姓でもありません。
何よりもこの漢字を見て「とりう」 と読める人は少ないでしょう。(今治、越智郡周辺は別ですが)
 私は生まれてから30歳まで関西に居ましたが、小学校から大学までこの名前を読むことが出来た人に会った ことがありません。 ほとんどの人が「とりい」あるいは「とりお」と読みます。
小学校の頃は名簿を読み上げる時、先生が変わる度に「え~、とりい君?」と言われ、その度に「とりうです」と言わなければならない苦痛に恥ずかしかったりうんざりしたりした事を覚えています。
そんな鳥生と言う姓について調べてみました。
ただ、姓に関する情報は差別等に関わる可能性を含んでおり何処かで誰かか不利益を被る危険性をはらんでいます。
このページは私の個人的な興味で製作していますが、誰かの不利益を看過するつもりはありません。
誰かが不利益を被りあるいは傷付く可能性がある場合には、ただちに削除を含めて善処したく考えています。
したがって、苦情及び不快感も含めてメールをいただければ幸いです。 なお、このページは予告及び訂正箇所の通知なく常に更新されます。

地図

 現在この姓は今治地方周辺に多くあり、今治市には鳥生という町名まである所を見ると「鳥生姓」発祥の地、少なくとも鳥生一族がまとまって住んでいたと思われます。
 色々な姓について詳しい知人によると、鳥生姓の祖先は奈良で、平城京があった時代かそれよりも以前に政変があり、鳥生一族は瀬戸内海を落ち延び今治に辿り着いたとのこと。
現在でもその辺りを「鳥生町」といいます。
正しくは北鳥生町、南鳥生町、東鳥生町があり、西はありません。
しかし、奈良から落ち延びてうんぬんと言う事に関して確証は得ていません。
今後調べる機会があれば調べてみたいと思っています。
 今治市の鳥生町は「とりう」ではなく「とーりゅう」と言います。
アクセントは「とー」にあります。
 最初に姓の鳥生の読みを「とりう」と書きましたが、話し言葉では「とりゅう」がちかく、漢字にかなをふるときだけ「とりう」になります。
 しかし、人によってはそのまま「とりゅう」とかなをふる人もあり、どちらが正解とはいえませんが、地名を「とーりゅう」と発音することを考えると、姓も「とりゅう」とかなを振るのが元々の言い方に近いのかもしれません。
ただ地名の場合は「とーりゅう」と伸ばしますが、姓は「とりゅう」と伸ばしません。
 以下の「今治市周辺の鳥生姓の人口」に書いてあるように、電話帳の登録では「とりゅう」とされている方が多いようです。


鳥生姓の始祖 .
「鳥生又三郎貞実と鳥生大祝家」という小冊子があります。
鳥生恵子さんによるもので、鳥生の起源に触れています。
これによると、鳥生姓を始めに名乗ったのは貞実という人物。
この貞実は大三島の大山祇神社の神事、社務を司る大祝(おおほうり)職で姓は越智。
大祝家の拠点は今治市別名(べつみょう)で、神事の度に大三島へ渡っていました。

さて、越智貞実が何故鳥生貞実になったのか............?
時は南北朝時代、大祝(おおほうり)職であった貞実は1332年の足利尊氏の挙兵に伴い、1336年大祝職を退いて息子に譲り、自らは尊氏に従軍します。
当時、越智大祝家は6万石とも8万石ともいわれる所領をもっており、大きな権勢を確立していたらしく、軍事に就いた一族は三島水軍と呼ばれています。
貞実はその挙兵に伴い鳥生の地に大祝家の別家を立て、姓を鳥生にした........とのこと。
つまり、「鳥生」は最初に地名であってその地名からとって姓になったということらしいのです。
このあたりの系図は三島大祝家譜資料「三島大祝系図」に詳しく、貞実の従軍に関しては奉行所に届けた貞実の軍忠状があります。
残念ながら、当初想像していた奈良から逃れて来た一族がちらばったという想像は違っている。
しかし、
では地名の「鳥生」はどこから来たのか?
同じく「鳥生又三郎貞実と鳥生大祝家」鳥生恵子著によると...........
『「立花村郷土史」と「三島宮御鎮座本縁」に鳥生という地名の由来がある。「小千益躬(オチノマスミ)が明石大倉谷で鉄人を退治し、その凱旋の時、木の下の浜に着船し、そこに繁れる榊の木に鏡を掛け、大山積を祭祀した。その木に白鷺が巣を作り鳥が生まれたところからこの地を鳥生と呼ぶ。」 ........
つまり、白鷺が生まれた地だから鳥生、そして、その地名をとって姓にしたということらしい。
地名から、その地に住む一族ということで姓に地名を使うというのは納得できそうです。
しかし、その元になった地名の由来、鳥が生まれたから鳥生?これはどうかな~と.....?
これは神話のようなもので、鳥生大祝家に威厳をもたせるため、後に作られたような気がしますがどうでしょう。
確かにこのあたりには鷺が多い。が、小鷺だし。
奈良から逃れた鳥生一族が流れ着いた地、まだ、捨てがたい。
「杣田」と「野間」 .
現在「鳥生」姓が多く住んでいるのは、「杣田(そまだ)」という地区と「野間(のま)」というどちらかといえば山間の地域で、どちらも今治市です。
それと玉川町と波方町です。
以前、鳥生一族が今治の鳥生町からそれぞれ移動したものと思っていましたが、それは違うことが判明。
南北朝の時代から三島大祝一族は今治を中心に広大な領地を所有しており、分家である鳥生大祝一族もこの領地内を広がったと考えられます。
鳥生姓は鳥生町を起源として始まりましたが、ちらばった地域はいずれも一族の領地だということです。
つまり、今治市を中心に野間、杣田、波方、玉川に至るまで一族の領地だったことがうかがえます。
「鳥生神社」 .
実は杣田には鳥生神社があります。
小さく粗末(失礼)な神社ですが、「子守山城主鳥生肥前守康綱公400年記念祭」という石碑があります。石碑の建立は昭和44年9月吉日となっており、そこから400年を逆算すると1569年で、織田信長が勢力を広げつつあったとはいえ戦国時代の末期になります。
記念という言い方を考えると、没後ではなく城主就任ということでしょうか。
この地は南北朝時代から鳥生貞実の所領であるため、康綱公以前にも鳥生一族が治めていたはずです。
とすれば、この康綱公だけを取り上げて祭りがあるということには特別な意味がなければなりません。
築城ということかもしれません。
鳥生神社 杣田の山
この円の所、山陰に鳥生神社がある
この写真は道路から撮ったもので、私が立っている所は結構住宅が建っており、車の往来も多い。


神社の鳥居
神社の社に向かう石段。
古いものではないが、よく管理されていないため寂れている。
山中にある社
下の道路から歩いて5分ほどの所にある
人もほとんど来ないようで寂れていおり、周りは竹やくぬぎで被われている。
竹は細く小さいものが多く、これはおそらく矢竹と言われるもので昔は矢に使われていたのかも知れない。
何故か社のまえには円形の土俵のようなものがある。
古くからあるのか、最近出来たものかも不明。
左の写真は社の後ろにある石碑
左手前の石塔には「子守山城主鳥生肥前守康綱公350年記念祭」とある。
建立は大正9年9月吉日、鳥生神社氏子中。
400年祭も9月である事を考えると、9月には何か意味がありそう。
後ろに見える宝筺印塔には何も書かれていないが、南北朝初期のものであると判明。
これは、元、元興寺文化財研究所学芸員、藤澤典彦氏の鑑定にによるもの。
この 宝筺印塔は当時この地を手に入れた鳥生又三郎貞実によって、このあたりで戦のために亡くなった人々のために建立したものらしい。
子守山城主鳥生肥前守康綱公の頃より、約250年も前のものである。


鳥居の内側にある石碑。
「子守山城主鳥生肥前守康綱公400年記念祭」とある。
建立は鳥生数一氏、昭和44年9月吉日。
次の450年祭は2019年9月でしょうか?
全国の鳥生さんはちょっと意識しておいてください。
今治市周辺の鳥生姓の人口 .
今回電話帳で調べてみました。
今治市が117軒、波方町が15軒、玉川町が13軒、朝倉村が4軒、東予市が2軒。
面白い事に瀬戸内の島の町村では全部で2軒でした。
このあたりは水軍が勢力を持っていた地域なので、多くの姓は島々に分散しているのに。
海にはあまり目を向けなかった氏族なのかも知れません。
合計で151軒、一軒に4人平均として計算すると、604人になります。
思っていたよりも少なかったし、玉川町にこんなに沢山おられることも知りませんでした。
それともう一つわかったことは、今治市の117軒のうち21軒は「とりう」、残りの96軒は「とりゅう」という読み方だったことです。
と言うのも、始めの鳥生姓の数件と後の鳥生姓の数件の間に、別のいくつかの名字があったためです。(鳥越など)
その他にも「とりい」「とりせ」と言った読みもあるようですが、電話帳では確認出来ませんでした。
メールを戴いた全国の鳥生さんへのリンク
熊本県の鳥生 博さん
http://www.louis-co.com/
横浜の鳥生新治さん
http://www2u.biglobe.ne.jp/~toriu/shinji/shinji.html
新しい情報
2009/2/1
久しぶりに鳥生姓に関してメールがありました。
許可を頂いて、以下に全文を引用させていただきました。ありがとうございました。
昔はトリフと書いていたことのこと、驚きです。違う漢字が当てられていた可能性もありやなしや......。
2009/2/1
はじめまして。私は今治市内に住む鳥生千百合(とりう ちゆり)と申します。 私の父親はそまだの出身です。 私自身は両親が商売をするために昭和30年代に今治市内に移り住んだ後に生まれたので そまだにすんではいませんが 私の姉の一家はそまだに住んでいます。 ↓の表示をみてうれしくなったので思わずご連絡を差し上げたしだいです 。

  鳥居の内側にある石碑。 「子守山城主鳥生肥前守康綱公400年記念祭」とある。 建立は鳥生数一氏、昭和44年9月吉日。

  この鳥生数一は私の祖父です。 そまだにはもう一つ「真名井神社」という神社があり、その近くの公民館の桜の木々を植えたのも祖父の発案だと聞いています。
 こもり神社(鳥生神社)のお祭りは 以前は毎年9月7日に行われていましたが お仕事の関係で平日に集まることが難しい人が多いことを理由に 何年か前から9月第二日曜日に行われることになりました。
  女性はこのお祭りに参加できないので残念です。
  最近は参加する人も少なくなって さびしいかぎりだということを聞いています。
  この日はたしか鳥生肥前守康綱公が非業の死を遂げた日で 「どんなに晴天であっても 一滴でもかならず雨が降る日」と聞かされています。
  また、市内の蒼社川沿いの三島神社(鳥生の祇園さんの名で親しまれています)の7月下旬のお祭りの日は ご先祖のどなたかが 戦でキュウリのつるに足をとられて思うように戦えずに亡くなった日とされていて 「この日はきゅうりを食べてはいけない」といわれています。(戦国時代にキュウリってあったんでしょうか?うり等のつる性の他の植物なのかもしれませんね) 旧暦・新暦の関係で今では日にちがずれていますが 上記の鳥生肥前守康綱公と同じ人なのかも知れません。
  「とりう」の表記ですが 昔(戦前?)は「トリフ」と書いたそうです。 戦後に旧かなづかいの表記を改めることになったので「フ⇒ウ」にかわったと聞きました。
  「てふてふ⇒ちょうちょう」や「けふ⇒きょう(今日)」に表記がかわったのと同じです。 以下は私個人の考えですが、小さな字の「ャ・ュ・ョ」や「ッ」などの表記は古典では出てこないので「とりゅう」の表記は近代になってから現れたものではないでしょうか。
  江戸時代の身分制度では農民となっています。 名前も農民風につけないといけなかったそうです。 が、一旦ことがあると参戦するようになっていたので うちの家には古い時代の刀などが残っていました。 明治以降は先祖代々の苗字を名乗れることになりました。
  家紋には疑問があります。お墓を見ると多くの鳥生さんは大三島の紋「三」なんですが、うちは「丸に剣花菱」なんです・・・。どなたか理由をご存じの方がいらっしゃったらお知らせくださいませ。
 系図の記載についても詳しく書かれていた方がいらっしゃいましたが うちにも同じ ものが伝わっています。小早川隆景の軍との戦や長宗我部元親軍との戦のことも同じです。
 ただ初めの頃の天皇云々というのは 私自身は眉唾(・・・?)ものだなあと思って います。
 そういえば先祖が衣干城の城主だったという話も聞いたことがあります。 おそらく戦国時代のことなので お城といっても「砦」の意味合いが強いのではない かと思います。
 大三島の大山積神社の越智氏の系図に「鳥生」の名前を見つけた時はうれしかった ですよ。
2003/11/14
鳥生神社の土俵のようなものに関して情報がありました。以下にメールを引用します。
『掲載写真も子供の頃よく遊んだ場所なのでなつかしく拝見しました。 (松山なのでちょくちょく帰りますが、行く事はないです) 写真の社の前の土俵のようなものは、土俵です。 お祭りの時に、子供相撲が行われますがその時のものですね。 勝つと30円、負けると10円もらえる、、なんてのを思い出しました。』
杣田出身、松山在住の鳥生伸一さんからのメールでした。

2003/10/24
下の情報に関して一言
古事記によると31代天皇は用明(ようめい)で敏達天皇は30代。
勘違いによるとおもわれます。
日本書紀によると、敏達天皇の在位は572年から14年間。31代用明天皇は3年間。
敏達天皇は和名をヌナクラフトタマシキといい、敏達というのは諡(おくりな)で死後付けられる漢風の様式。
用明天皇、敏達天皇はその後の崇峻天皇、推古天皇とともに欽明天皇の子。
ちなみに系図については江戸時代に多くが作成されており、そのほとんどが遡れば天皇に繋がるようにつくられています。
したがって遠く遡った時代の部分に関しては??と考えたほうがいいと思われます。
残念ですが。

2003/8/17
東京の鳥生忠佑さんから情報がありました。
全文掲載します。
『今日は、東京の練馬に住む鳥生忠佑(ちゅうすけ)です。鳥生の姓を見ておたよりします。
私は、東京都北区に東京北法律事務所{現在弁護士3名}を持ち、44年間弁護士をしています。
その間、父の実家が在る杣田に行ったりして、鳥生の姓の謂われなどを調べてみました。
それによると、実家の地にある本家には、〔橘姓鳥生苗系図」があり、鳥生のもとは橘姓であることがわかりました。
橘の本姓は、人皇31代敏達天皇から始まり、同天皇の第3皇子橘民谷の子、つまり天皇の孫の長男井手左大臣橘諸兄についで3男の橘鳥生が勅旨をもって伊予の国に下り、橘鳥生の領した高下の浜を鳥生郷と称したと記述されています。
系図は、そのあと、鳥生を姓とし、領地を広げて城主となり、武将として鎌倉、足利、戦国時代を河野、三島水軍とむすんで生き抜いたことが記されています。
圧巻は、永禄11年3月8日時の大将鳥生肥前守康綱公が長曾我部元親に城を焼かれたが、、反対に元親が宇和喜多郡の戦最中に、能島、来島、因の島の水軍300艘兵3千を率いて土佐の国に押し寄せ浦津を焼き亡ぼしたので、元親おおいに驚き、兵を土佐に引き返えさせたため、鳥生城を奪還したとあります。
鳥生の一族は、その後、豊臣秀吉の天下統一で差し向けられた小早川隆影の大軍に破れ、杣田一帯の地に農民として土着したとされています。
私たち鳥生の姓に連なる者は、主として農民となったどこかでそれぞれ枝分かれしたものと思います。
こうなると、すべての鳥生さんにいっそう親しみが湧いてきます。』

2003/6/7
鳥生 良朗さんから、鳥生恵子著「鳥生又三郎貞実と鳥生大祝家」という小冊子を送っていただきました。
おかげで、鳥生姓の疑問に関して飛躍的な解明がありました。
それに伴いページも更新しています。

2003/5/28
鳥生神社のお祭りは毎年9月の第2日曜日との指摘がありました。
訂正しておきます。
なお、1000円が必要とのことですがこれは折詰めの経費で、あらかじめ予約が必要だそうです。
お参りだけでいいという方は、必要ないということだと思います。

2003/5/19
「鳥生神社が平地へ移設されます。
山の上だと参りにくいとの長老の意見だそうです。
毎年9月の第一日曜日が神社のお祭りです。お参りに¥1,000.-(折代、お神酒代で す。)お参り下さい。お待ちしています。 」とのこと、
今治市の、鳥生 良朗(63歳)さんからメールをいただきました。
後日確認に行って来たいと思います。
波方ファーム / toriu photo