飛行機の父
八幡浜は飛行機の父二宮忠八の生誕地です。慶応2年(1866)八幡浜市矢野町に父幸蔵、母きたの四男として生まれました。子供の時から物事に対する探求心が強く、凧をつくり揚げることが好きな少年で、13歳の時父親を亡くし、家業が傾いて、小学校をやめ、さまざまな職について、夜は勉強に励みました。学資づくりに役立ったのが凧づくりで、彼のつくる”忠八ダコ”と呼ばれた数々の凧は飛ぶように売れたといいます。
1887年(明治20年)、香川県の丸亀第12連隊の看護卒として入隊した忠八は2年後の1889年には上等兵に。その年の11月、香川県西部の山岳地帯で行われた秋季機動演習の、帰途、仲多度郡十郷村の樅の木峠で、兵隊達の捨てた携帯食を狙って飛んでくるカラスの群れを見て飛行のヒントを得、ひたすら飛ぶ事の研究に没頭しました。昆虫や鳥、トビウオなどの観察や、伝説の天女や仙人、天狗に児雷也といった話など、空を飛ぶものならありとあらゆるものを興味深く調べていったといいます。
1890年、薬物や機械を取り扱う三等調剤手に任命され、営外にも住めるようになった忠八は、さらに研究を進め、1891年船のスクリューにヒントを得たプロペラ、滑走用の3つの車輪、聴診器のゴム官を細かく切り動力とした1号機”烏型模型飛行機”を完成させました。実験は4月29日の夕刻、丸亀練兵場の広場で行われました。ゴムによってプロペラが回り、ブルブルと機体を振るわせながら地上を滑走し、飛び立った飛行機は約10メートルを飛行し、草むらに落下。アメリカでライト兄弟が飛行実験に成功する12年前、現代の飛行原理へとつながる動力飛行機が、日本で始めて空を飛んだ瞬間でありました。
烏型模型飛行機の飛行実験に成功してから、忠八の次なる目標は人を乗せてと飛ぶ2号機”玉虫型飛行機”の製作へと移りました。妻の内助の功を得て、2年後の1894年には日清戦争が起こり、野戦病院の一等調剤手として従軍しながら、戦略的にも飛行機の必要性を痛感した忠八は、何度も設計図に上申書を添えて上官に提出しましたが、理解を得るに至らずことごとく却下されたのでした。失望した彼は、軍を辞め、自らの手で完成させる為の資金づくりも兼ねて、大阪の大日本製薬に入社。薬業界でも才能を発揮し、百数十種にも及ぶ薬品の改良・開発を行い、大阪実業界の第一人者たちと肩を並べるまでになりました。こうして資金もでき、石油発動機を動力にと考えた飛行機の枠組みまで出来あがった頃、彼の夢は無残にも砕け散ることになりました。1903年12月13日、ライト兄弟が世界初の有人動力飛行実験に成功 そのニュウスを新聞で知った忠八は、自分の作った機体をハンマーで打ち壊し、以来一切飛行機の夢を語ろうとはしなくなりました。やがて16年の歳月が流れ、忠八が54歳になった頃、彼の発見は白川将軍の手を通じ、専門家達によって、世界に先駆けた研究であったことが証明されました。1921年には、かつて忠八の上申書を却下した長岡中将からの詫び状、1925年には逓信大臣からの表彰状、翌26年には帝国飛行協会からの有効賞が贈られ、全国各地で忠八の偉業をたたえる声があがりました。晩年には京都府八幡町に航空犠牲者の霊を弔う飛行神社を創建、1936年4月8日、発明と事業、夢と情熱に満ちた71歳の豊かな生涯を閉じました。
(八幡浜市観光パンフレット参照)

忠八さん(私達は敬意を込めてこの様に呼びます。) 二宮忠八生誕の地
市内中心部のアーケードの中にあります
少年時代にはこの明治橋で忠八凧を揚げました。 忠八が幼いころに遊んだという八幡神社。石段を登って境内へ上ると、青い空が広がり八幡浜市内が一望できます。忠八はこの場所に立ち大空への 思いを馳せたのでしょう。
毎年4月29日には記念飛行大会が市民スポーツパークで開催される。ゴム動力プロペラ機・忠八考案の烏型模型飛行機など飛ばす楽しさすばらしさを実感しようと市内外からたくさんの人が参加されます。
市民スポーツセンターにある復元された玉虫型飛行機。本日は大会に花を添える為運んできた。
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