重見周吉の調査はこのようにして、行われました。

 重見の調査研究を本格的に手掛けた最初の人は、ロンドン漱石記念館館長・恒松郁生氏です。
 同氏はロンドンに留学していた漱石について、その足跡などを詳しく研究して、ロンドンで漱石の記念館を開いている人です。
 重見の存在は、漱石を研究している人にもほとんど知られていませんでしたが、平成12年5月に新潮社から「英語教師夏目漱石」という本が出され、その中で「漱石を蹴落とした重見周吉はエール大学を卒業し・・・」と紹介されていました。更に、漱石自身も「学習院の教師になれると思い、学校へ着て行くためモーニングも買っていたがアメリカ帰りの重見という人物に学習院のポジションをとられてしまった。」と「私の個人主義」という本に書いています。、
 そこで、恒松氏は知人の学習院大学の湯沢教授に依頼して、重見に関する資料を送ってもらいました。送られた資料の中に重見が学習院に提出した履歴書があり、重見の人物像の輪郭が浮かんできました。
 ひょとして、地元で郷土史を調べている人の中に重見について知っている人がいるかもしれないと思った恒松氏は、同年10月11日に松山市の日英協会で行われた「ロンドンでの漱石」と題する講演の中で、重見に関する情報の提供を呼びかけました。
 講演後のレセプションで私(吉田)が調査に協力しましょうと申し出たため、その翌日に重見が幼少時代を過ごした今治市本町4丁目周辺の聞き取り調査が行われました。この調査は、恒松氏、江頭氏(愛媛新聞)と私の3人で行いましたが、重見に関する手がかりはつかめませんでした。
 11月11日の愛媛新聞に「今治出身の重見周吉、漱石の運命変えた。学習院採用で明暗」と大きく報じられたので、地元の人々にも重見の存在が知られるようになりました。また、11月3日〜5日今治市制80周年・同志社創立125周年記念で同志社・今治モダンフェスティバルが今治市で行われましたが、そのときの記念講演「今治モダンニズムを考える〜今治教会、横井時雄、徳富蘆花」(講師は同志社女子大・河野仁昭先生)でも重見のことが紹介され、市長を始め多くの人が重見に興味を持つようになりました。
 この頃から重見の故郷の今治では郷土史家の阿部克行氏や河野美術館館長・桑原友三郎氏等によって精力的な調査活動が始まりました。その結果、国内にある重見に関する資料が集まりました。それらを平成13年6月22日に今治史談会の例会で阿部氏が発表しました。
 一方ロンドンでは恒松氏がエール大学へ問い合わせの手紙を出していましたが、1年近く経っても返事が来ないので、直接エール大学へ行って調べなければならないかと考えていたところへ重見の資料が恒松氏に送られてきました。6月末のことです。
 エール大学の資料には重見の写真や家族構成・経歴等が書かれてありました。これらは日本側の資料と一致します。これで、1年以上かかった重見の調査にようやく終止符が打たれました。
 恒松氏自身のまとめた調査結果は、7月2日の愛媛新聞に「漱石の運命を変えた重見周吉とは」と題して掲載されました。阿部氏の方も調査結果を基に文筆家の立場で重見を見つめ直して今年の11月頃地元の文芸誌「どんどび」に発表する予定です。
 どんな調査研究にも運・不運はつき物ですが、この調査には幸運がありました。
 最初の幸運は重見のひ孫に当たる人が系図を作成しており、その提供があったことです。その系図により、重見が米国から帰国した後は、医師をしていたことがわかりました。さて、今度はどこで医師をしていたかが調査の中心になりました。
 ある時河野美術館へ古書のカタログが送られてきました。その中に明治から大正期の全国の医師の名前が載っている「日本医籍録」がありました。まさか重見の名前は載っていないだろうが、今治地方の昔の医者の名前が出ておれば、資料として役に立つと思い、桑原氏が同書を手に入れたところ、運良く重見が東京で医師をしているという記述がありました。研究者の熱意が幸運を呼んだのでしょう。
 これこそ研究者のみが味わうことができる幸せだと思います。