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人々が松山平野に住み始める。 |
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耕作が始まる。 銅剣や鉄器が伝来する。 |
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松山平野への本格的な移住が始まる。 |
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小さな集落が大きな村へと成長していく。 |
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大和朝廷 の影響がこの地に及び始める。 |
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聖徳太子が伊予温泉に来浴される。 彼の訪問の記念碑が建てられる。 |
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舒明天皇道後に行幸される。(日本書紀) |
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1月14 日 |
斉明天皇道後に行幸される。額田王が熟田津の歌を詠む。(日本書紀) |
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13 の国が伊予の地に作られる |
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空海上人 中国に渡り仏教を学ぶ。帰国後、真言宗を開く。 |
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2月15日 |
一遍上人が道後に誕生する。 |
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一遍上人時宗を開く。 |
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伊予の武将、河野通有が弘安の役で戦う。 |
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一遍上人が温泉の湯口に南無阿弥陀仏の名号を彫る。 |
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河野道盛が湯築城を築き、ここを拠点とする。この後、道後は伊予の国の政治と経済、そして文化の中心となる。 |
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10月25日 |
地震のため温泉の湧出止まる(道後温泉之記、予陽郡郷俚諺集) |
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15万の石高とともに松山藩主に命ぜられた松平定行は、その翌年に道後温泉の施設充実に着手し、浴槽を士族・僧侶用、婦人用、庶民男子用の4つに分け、この他に15銭湯、10銭湯、養生湯、その下流に馬場を設けた。 |
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小林一茶来浴する(寛政7年紀行) |
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十返舎一九、道後温泉の実況を描く(四国遍路独案内) |
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4月10日 |
道後温泉本館が改築され、現在の3階楼となる。(道後湯之町町庁日記) |
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正岡子規・夏目漱石入浴する(散策集) |
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2月〜3月 |
夏目漱石、高浜虚子入浴する(虚子著「漱石氏と私」) |
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11月20日 |
霊の湯(たまのゆ)および又新殿(ゆうしんでん)が新築落成する。(道後湯之町町庁日記、道後温泉史料) |
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10月 |
皇太子嘉仁(よしひと)親王(=大正天皇)が来県され、温泉に入浴される。(海南新聞) |
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日露戦争によるロシア兵捕虜も入浴する。(道後湯之町町庁日記、「大将白川」) |
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韓国統監伊藤博文が来松し、温泉に入浴する。 |
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陸軍特別大演習のため皇太子裕仁(ひろひと)親王(=昭和天皇)が来松され道後温泉に入用くされる。 |
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アメリカ軍先遣部隊が松山に駐屯し、霊の湯(たまのゆ)、神の湯の一部、道後公会堂を接収する。 |
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アメリカ進駐軍、霊の湯を返還する。 |
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3月19日 |
昭和天皇が来県し入用される。湯祈祷を温泉まつりと改称する。春、古い湯釜を振鷺閣より道後公園内に移す、湯釜薬師と呼ぶ。 |
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道後公園に移した中世から明治27年まで使われていた湯釜が県指定文化財となる |
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