道後温泉

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道後温泉の歴史

約2000年前

人々が松山平野に住み始める。

紀元前300年

耕作が始まる。

銅剣や鉄器が伝来する。

西暦元年

松山平野への本格的な移住が始まる。

西暦300年

小さな集落が大きな村へと成長していく。

4世紀半ば

大和朝廷 の影響がこの地に及び始める。

596年

聖徳太子が伊予温泉に来浴される。

彼の訪問の記念碑が建てられる。

舒明帝11年(639)

舒明天皇道後に行幸される。(日本書紀)

斉明帝7年(661)
1月14 日

斉明天皇道後に行幸される。額田王が熟田津の歌を詠む。(日本書紀)

8世紀初頭

13 の国が伊予の地に作られる
(人口約10万人)

804

空海上人 中国に渡り仏教を学ぶ。帰国後、真言宗を開く。

1011?

源氏物語紫式部により書かれる。その中で伊予の湯桁として伊予の国が紹介される。

延応1年(1239)
2月15日

一遍上人が道後に誕生する。

1274

一遍上人時宗を開く。

1281

伊予の武将、河野通有弘安の役で戦う。

正応元年(1288)

一遍上人温泉の湯口南無阿弥陀仏の名号を彫る。

建武元年(1334)

河野道盛が湯築城を築き、ここを拠点とする。この後、道後は伊予の国の政治と経済、そして文化の中心となる。

慶長19年(1614)
10月25日

地震のため温泉の湧出止まる(道後温泉之記、予陽郡郷俚諺集)

寛永12年(1635)

15万の石高とともに松山藩主に命ぜられた松平定行は、その翌年に道後温泉の施設充実に着手し、浴槽を士族・僧侶用、婦人用、庶民男子用の4つに分け、この他に15銭湯10銭湯養生湯、その下流に馬場を設けた。

 寛政7年(1795) 2月1日

小林一茶来浴する(寛政7年紀行)

文政4年(1821)

十返舎一九、道後温泉の実況を描く(四国遍路独案内)

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明治27年(1894)
4月10日

道後温泉本館が改築され、現在の3階楼となる。(道後湯之町町庁日記)

明治28年(1895) 10月6日

正岡子規夏目漱石入浴する(散策集)

明治29年(1896)
2月〜3月

夏目漱石高浜虚子入浴する(虚子著「漱石氏と私」)

明治29年(1896)
11月20日

霊の湯(たまのゆ)および又新殿(ゆうしんでん)が新築落成する。(道後湯之町町庁日記、道後温泉史料)

明治36年(1903)
10月

皇太子嘉仁(よしひと)親王(=大正天皇)が来県され、温泉に入浴される。(海南新聞)

明治38年(1905)

日露戦争によるロシア兵捕虜も入浴する。(道後湯之町町庁日記、「大将白川」)

明治42年(1909)  8月24日

韓国統監伊藤博文が来松し、温泉に入浴する。

大正11年(1922) 11月22日

陸軍特別大演習のため皇太子裕仁(ひろひと)親王(=昭和天皇)が来松され道後温泉に入用くされる。

昭和20年(1945) 10月11日

アメリカ軍先遣部隊が松山に駐屯し、霊の湯(たまのゆ)、神の湯の一部、道後公会堂を接収する。

昭和24年(1949) 11月

アメリカ進駐軍、霊の湯を返還する。

昭和25年(1950)
3月19日

昭和天皇が来県し入用される。湯祈祷を温泉まつりと改称する。春、古い湯釜振鷺閣より道後公園内に移す、湯釜薬師と呼ぶ。

昭和29年(1954)11月24日

道後公園に移した中世から明治27年まで使われていた湯釜県指定文化財となる

参考資料;  「道後温泉本館の歴史」 道後温泉本館調査委員会編纂 1994              
          「松山市の歴史」     松山市 (ホームページ <
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/index.html> )

絵と写真 : 資料提供 松山市役所
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