「脱藩の道」周辺の巨樹 ・・・ /6 

 竜馬が駆け抜けた脱藩の道周辺にある巨樹の風景。

    高知市周辺から・・・


  

    

        現在の高知市、城下の本町筋一丁目にあった富商「才谷屋」の次男として生まれた坂本竜馬は、郷士という

          武家では底格の身分ながら、江戸の剣術修行で会得した北辰一刀流免許皆伝の腕前と、その天性の人物

          に惹かれて懇意となった勇士らとの交友の中で、徐々にその才覚を世に知らしめていく事となる。

          文久二年(1862)、竜馬が同士、沢村惣之丞とともに脱藩を企てた折りのその行程が解明されたのは、意外

          にも近年の昭和63年で、大洲市在住の研究家、村上恒夫氏が「関雄之助口供之事」という古文書から地名を

          確認し、更に実地調査されて大方のルートを確定したという事。大方というのは、高知市から檮原町までは当時

          の土佐藩内であるため、古文書では省略されていて、おそらくその当時の主要道であったろう道筋が、上記に

          示した地図のルートであるという事らしい。


          先ずは土佐藩二十四万石の御城下から、西の伊野町に向けて出立するのだが、その前に市内の近隣にあ

          る巨樹を見ておく事にしよう。

          市内のメインストリートを東に、久万川に架かる葛島橋を渡ってすぐ、川沿いの道を南に下っていく。左手には

          名所五台山があり、山頂近くに札所の竹林寺、そして同県佐川町出身の植物学者、牧野富太郎氏の功績を

          偲ぶ「牧野植物園」がある。

  

          「日本植物学の父」と言われ、日本近代植物学の基礎を築いた郷土の偉人である。館内には、牧野氏の研

          究した膨大な資料や、自ら描いた植物の細密画なども直に観覧できる。

          ここから下田川に沿って東に進み、南国市の境近くで瑞山橋を渡る。その先に武市半平太(瑞山)の旧宅と

          墓がある。文武に優れ、剣術ではかの千葉門下で、竜馬とともに塾頭にまでなった剣客であり、また「武市

          の天皇好き」と呼ばれる程の尊皇派の論客であった。その半生は各書物に詳しいが、白眉秀麗な面立ちで

          月形半平太のモデルになったという事でも有名な人である。

          すぐ近くに石土池という大きなため池があり、南東の岸には札所善師峰寺がある。楠は池より北東よりのやや

          煩雑とした小道の先にあった。


      

       楠上神社の楠  池の北東、学校前の道を少し東に行った所から北の小道に入る。県内第二位

          の大楠だが知名度は低い。観察時、枝には連絡用のスピーカーがくくりつけてあった。簡素な白木の鳥居には

          確かに楠上神社と書かれており、小さなお堂もこの楠があったから建てられたものではないか。根元から若い

          株が立った主幹は流石に巨大で、小さな空洞があるものの樹勢自体は良いようである。各枝先の損傷は、毎

          年来る台風との格闘を物語っている。黒潮に洗われた、いごっそうの大楠とでもいうべきか。


目通り周囲9.7☆8.7m/樹高20m/枝張り22.5m/高知県、南国市、十市、楠上神社


          ここから海沿いの黒潮ラインに出る。西進して浦戸大橋を目指す道で、家並みからいきなり青い海原が覗い

          て少し面食らった。仁井田に入り、右手に三里小学校が見える辺りから大平山の麓に向かう小道に入っていく。


 

     仁井田神社の楠  浦戸湾の東にある仁井田は、貯木場とセメントの原料である石灰石の鉱

          業プラントが隣接する高知の経済線である。大平山の裾野に鎮まった仁井田神社は、湾岸の喧噪から離れて

          実に長閑で静穏な空気が漂っている。社頭にある大楠は、案内に樹齢715年と記されている。誕生は鎌倉時

          代に元が侵攻してきた時期に近い。ただそんな老木とは到底思えない旺盛な大繁茂で、幹の状態も頗る良い。

          奔放に伸び広がった枝張りは壮快で、大変見応えのある巨樹である。


目通り周囲6/樹高27m/枝張り40m/高知県、高知市、仁井田、仁井田神社


        さて再び高知市の中心部に戻ってきた。鏡川にかかる天神大橋を渡った先のパーキングエリアにも、市内で

          は最大の大楠がある。


 

     潮江天満宮の楠 元の潮江川の川岸にあり、お城からも近い。坂本龍馬もこの楠はよく目に

          した事だろう。現在は潮江天満宮の境内から外れているが、樹は神社の所有であり、元はここも境内の領域

          であったかもしれない。繁茂が目通りに対してやや小さいため、近くに来ないとこれ程の巨樹とは解りづらい。

          ただ重厚な主幹と枝葉の茂りも旺盛なようで、小都市の真ん中にあって尚意気盛ん、更なる繁栄を祈りたい。


目通り周囲7.3m/樹高25m/枝張り26m/高知県、高知市、天満町、潮江天満宮


          いよいよここからが脱藩の道。

          竜馬が出立したのはおそらく真夜中だったろう。当時、脱藩は紛れもない重罪で、今でいえば北朝鮮の兵士

          が国境線を越えて韓国に亡命するようなものだろうか。ただ国状はそれ以上に危うい状態であり、正に命がけ

          の脱出である。竜馬はここから伊予の五十崎町、宿間まで130キロを2泊3日で歩いたという。そこから先は

          肱川を船で下った。

          山また山の峻厳な道のりを、人目を避けて黙々と歩いて行く脱藩の志士を、もし誰かが見とがめても、この若

          者をあえて黙殺する。多くの地元民には、山之内公とはそりの合わない長曽我部侍の気質が残っていた。

          「あの坂本の次男坊が行きよる」密かに祝福するような思いで、すれ違っていたのだろう。   

 


                                               ★資料/万有百科大事典