「脱藩の道」周辺の巨樹 ・・・ /6  

 いよいよ終点、長浜へ・・・


 

          大洲は加藤氏六万石の城下町で、肱川沿いにある大洲城は要害堅固な名城として、現在は重要文化財と

          なっている。肱川を下っていると前方に形の良い独立峰が見えてくる。標高319.6mの富士山(トミス山)で、

          山中、ツツジの咲き誇る大洲の名所である。船上から秀峰を眺める竜馬は、この大洲に立ち寄っただろうか。

          大洲市は松山市から南予に向かう中継点のような所で、又東西南北の各市町村に向かう主要道が集まった

          交通の要所でもある。ただ不思議とこの地域を避けるかのように、遍路の札所が無い。43番の明石寺から

          次の大宝寺までは県内一の長丁場で80キロ。かつて、山あり谷ありの難所を通るには、この大洲か内子あ

          たりで必ず一泊しなくてはならなかったという。経済効果としては、かえってこの方が良かったのかもしれない。


          市内の中心部を蛇行して流れる肱川で、大洲城跡を過ぎた所から久米川が分かれている。久米川は西の

          平野で又二つに分かれ、その一方の平地川が上流で再び沼田川と分かれている。この沼田川の上流に沼

          田のタブがある。


     沼田のタブ  沼田川沿いの道を暫く上ると、ふと雑木のとぎれた所に、こんもりと茂った小高い森

          が現れる。広葉樹が縦横に蔓延って、神域は独特の静寂を醸している。大きなタブが何本かある。最大の物

          は森の中程にあり、斜面を這い下りた根は長大で、枝葉もまた黒々と棚状に繁茂して樹勢も良い。

          タブはクス科の常緑大高木で、別名をイヌグス。イヌはそれに似て非なる物の意で、イヌブナ、イヌガヤなど、

          やや材として劣るものに付いた不敬な別称だろう。タブノキは葉がクスより細長いので見分けられる。材が腐

          りやすい事もあってか、クス程の巨樹は見られないが、元は御霊の依代であって、霊の樹がなまってタブノキ

          とされたという説もある。万葉集にも歌われた古来より人に関わりの深い樹で、なぜかこの大洲一帯にはタブ

          の巨木が多い。


目通り周囲6m/樹高22m/枝張り22m/愛媛県、大洲市、平野町平地、沼田


          再び肱川に戻って又川を下る。ゆっくりと蛇行して五郎橋を潜り、予讃線の五郎駅前で又大きく左に曲がる。

          昔、日本地図で野口五郎岳という山を見つけて驚いたが、ここも変わった地名である。何か人物と関わりが

          あるのだろうか。ここからの流れは水量も豊かで、岸辺の風景も素晴らしい。両岸には大洲長浜線と長浜中

          村線が併走して、やや吉野川の風景とも似た趣があった。大洲と長浜との中間あたりに八多喜があり、ここ

          には銀杏の特集で紹介した八多喜の銀杏があるが、その少し北側にある手成という所にも、やや毛色の違

          う大きな銀杏がある。


 

     金竜寺の銀杏  山肌に蛇行して続く坂道を上り詰めると、山頂に高々とそびえ立った巨塔の如

          き銀杏葉の異様が現れる。その枝葉の多さに驚き、分け入ってこれがたった二本の樹から成っていると知り

          又驚く。幹は両方とも、根元近くから複数分岐して、そのため葉の量も単幹のものより際だって多い。案内で

          はもともとあった大木を、文化三年(1806)に伐採してこれをお堂改築の費用にあて、その切り株より萌芽し

          たものが、この偉観にまで成長したとの事。又この寺は毘沙門天を祀っていることから、地元の人は金竜寺と

          は呼ばす、愛着をこめて「毘沙門さん」と呼んでいる。境内の前は花序を垂らした栗畑があり、ゆるりと蛇行す

          る肱川の眺望が眼下に広がっている。もうすぐ目の前は伊予灘を臨む長浜町である。


      目通り周囲9.4☆3.7m/樹高42m/枝張り29m

目通り周囲7.5☆3.1m/樹高39m/枝張り25m/愛媛県、大洲市、手成、広岡、金竜寺


          いよいよ、最後の町である長浜町にやってきた。川幅は一段と広がって、蛇行した流れもここで真っ直ぐ河

          口を目指して進みだす。

          大和橋を越えると、前方に鮮やかな赤橋が見えてくる。県指定の文化財である長浜大橋である。日本唯一

          のバスキュール式鋼鉄開閉橋で、珍しい自然現象の「肱川あらし」とともに、この町のシンボルとなっている。

 

          以前夜明け前に肱川沿いを走っていた時、ライトに照らされた漂う霧の粒が一つ一つ解るような有様だった。

          霧を抜けると、アッという間に全身がびしょ濡れになっていて驚いた。


          とうとう、長浜町の肱川河口に到着した。竜馬と惣之丞はこの河口近くの宿で一泊したという。

          脱藩の道のしめくくりとして、この長浜町にある一本のタブを紹介する。肱川河口の右岸にある町の中心部

          から、予讃線を越えて東方の山に上っていく。蛇行する山道を上るに従って、眼下には青々と澄んだ伊予灘

          の良景が木々の間からかいま見られる。矢野のイヌグスは、暫く上った先の、棚田の向こうにあった。


  

     矢野のイヌグス  イヌグスは前記のとおり、タブノキの別称である。山上にポッカリと開いた青

          空の下で、タブは肉厚で光沢のある葉をキラキラと輝かせている。クスよりは寿命が短いためか、その繁栄

          する力がそれ以上に激しく感じられる。観察時小枝が一斉に赤く染まり、遠目では樹全体に鮮血を浴びたよ

          うな鮮烈な樹影だった。根元は周囲を石垣で覆われて、太い幹はやや窮屈な様子だったが、そこから飛び出

          したように枝葉は縦横に伸び伸びと湧き広がっている。奔放で力強い。


目通り周囲6.1m/樹高15m/愛媛県、長浜町、今坊、無事地喜地


          徳川を主とする幕府の階級制度は、自らをも蝕む歴史上の病源だった。とくにその締め付けが厳しい土佐

          藩という小さな石垣の中にあって、坂本竜馬ら脱藩の志士達は、天に向かって沸き上がる大樹の志を忘れて

          いなかったのだろう。野を駆ける風のように。空を走る雲のように。きらめきながら飛び立った若い命は、二度

          とこの石垣には戻ってこなかった。

          一国を救うという事よりも、むしろこの病巣から自らのきらめきを解き放ちたかったのではないだろうか。

          踏み固めた土地から、懇親の力で芽吹いてくる若葉のように・・・・


          竜馬は港をたって本州に上陸し、先に脱藩した吉村虎太郎を頼って下関に向かう。この吉村もやがては鷲

          口家の戦いで幕府軍に討たれるのだ。


          文久二年(1862)28才の竜馬が脱藩した道を辿ってきたが、もうその当時を知る者はどこにもいない。

          道路や町の様子も、その当時とは大きくかわっているだろうが、ただ路傍に、山中に、神域に立っている巨

          樹たちは、今も当時とそう変わりない程の有様だろう。

          偉人が育った土地には、やはりそれを産むにたる肥沃な土壌があったのだと、改めて実感した路だった。                   

   

                                                    

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                    ★脱藩の行程については「龍馬研究会」会員の方にご指導を頂きました。どうもありがとうございました。