補足

 2011年 7月30日 角野公民館で、「記憶の継承」 旧端出場水力発電所のワークショップがありました。
そこで、知りえた情報を、何点か書いておきます。
  昭和45年まで運用されたのだが、運用当時の住友共同電力に勤務していた方から、話を聞けて有意義でした。

 石ヶ山丈・貯水池は、端出場水力発電所に急激な負荷が掛かった時、平常運転では、600回転/毎分で回っているのですが、
負荷が掛かったときは、回転が落ち、電圧が降下してきます。その時、発電所の、ガヴァナー(調速機)が働き、水量を増加をさせ、
電圧の降下を防ぎます。一時的に、貯水池の貯水量の低下もあったとの事でした。
しかし、水は導水路を通って、流れ続けて来ていますので、回復するようです。
沈砂池は、電気で言うコンデンサーの役割もあったようです。

 石ヶ山丈・貯水池は、1150m3(リューべイ)の容量を持っていたそうです。
私は、「この石ヶ山丈・貯水池は、大きく見積もっても、20mx30mx深さ2,6m=1460立方mしかありません。」
と書きましたが、大きくは外れていませんが、それよりも規模は、小さかったです。

 端出場・水力発電所は、水があれば、能力いっぱいの発電が可能ですが、(設備最大出力)
実際は、水量の関係で、
 3000Kwの発電ならば、年間250日   4800Kwの発電ならば、年間170日の運用が、限度だったようです。
渇水期には、出力が、1/4〜1/2となりました。

 端出場・水力発電所の工事費は、別子銅山の年間収入の数割と、高額であった。
         一期工事 70万円+増設工事35万円 で、現在の100億円くらい
ちなみに、別子銅山の年間収入は、100万円  四坂島工事は、170万円だった。

 試運転は、明治43年12月でしたが、なぜか、使用開始は明治45年 5月31日で、完成は、明治45年7月。
当初出力は 3000Kw, 30サイクル、 発電機2台、使用水量0,723m3/S
総落差 597,18m (有効落差560,61m)で、昭和6年まで、日本最大の高落差でした。
 大正12年発電機を3台とし、出力4500Kw。 水量 1,11m/3Sと増大。
昭和5年に。七番川ダムの建設により、出力 4800Kw 使用水量 1,20m3/s となりました。
ただし、4800Kwの発電出来るのは、年間170日位だったようです。

 大正期には、採鉱現場で電力需要が高まり、端出場発電所の電力を主として、
補助的に、火力発電もあったが、うまく組み合わせて運用していた。
が、発電力が支配的に大きく、安定していて、火力発電の1/5のコストであり、
端出場水力がクシャミをすれば、全山が風邪をひく。 と言われる重要な施設であった。

 昭和18年 9月 空襲を避けるカモフラージュをする。
建屋外壁の煉瓦に、黒く色を塗ったのだが、ペンキが高かったので、コールタールを塗った。
ペンキだったら、剥ぐことも出来たのだろうが、コールタールを使ったので、現在に至っている。

 水圧鉄管内部は、点検塗装していたが、シンナー中毒事故もあった。
           (酸性が、強かった為 内部塗装をしていた ?)

 昭和48年、運用が終わった水圧鉄管撤去工事を、行なった。
新居浜の業者は、索道を架けて撤去工事をする予定だったが、鉄の価格が安く費用面で合わなかった。
広島の業者が、100万円で撤去工事をしたのだが、方法が、ユニークだった。
水圧鉄管の、上部から切断して鉄管を樋にして、滑り下ろした。
 現在、貯水池すぐ下の牛車道に、切断された鉄管の破片が残っているが、納得である。
 

 標高700mにあった冷たい水を、端出場水力発電所へ落としていたのだから、
タービンに水滴が付き、特に夏場は、2−3時間油断していると、床が濡れる事態になった。

 導水路には、点検路があるが、鉄橋には、木箱で水路が作られており、木箱の上は蓋がしていた。
鉄橋では、木箱の蓋の上を通り、保安・点検路としていた。


       以上、 ワークショップで、聞いた話で、興味があったものを、書いてみました。