発想の転換

 「牛車道を改良して、作られた」ともありますが、一本しかない牛車道で、
本当に、頻繁に通行する牛車を横目に、鉄道を作る事が出来たでしょうか ?
今まで、述べた様に、2分に1台。牛車が通るのです。

ヒントは、「牛車道の、下に作られた」 でした。


 M22(1989) 1/10 広瀬宰平 以下、重任局員立会いの上、鉄道建設を決定。予算15万円。

 鉱山専用馬車鉄道として、明治22年1/28申請。 5/14日許可。(馬60頭・馬車55両)

 用地測量・設計 明治23−24年

 機関車使用専用鉄道として、再申請したのが、明治24年10/20。 11/28許可。

 上部鉄道の着工が、明治25年5/4 で、 明治26年8/27開通 との、記録があります。


 その間の別子銅山トップの、広瀬宰平の、行動として、
明治22年5月11日、還暦祝いに夫婦で、世界1週の旅に出ます。
 ・・という事は、まだ、専用馬車鉄道の許可が下りていなかったはずです。
そして、6月8日 アメリカ・コロラド・セントラル鉱山で、断崖絶壁を走る山岳鉱山鉄道を、見ることになります。
 多分、この山岳鉱山鉄道に、衝撃を受けたのだと思います。  ”これは、別子でも、使える !! ”
その後、ニューヨークが気に入ったのか、周辺に、1ヶ月滞在して、ヨーロッパを回り、11月に日本に帰ってきます。
                                       広瀬宰平の、欧米巡遊日程(広瀬歴史記念館)

 国際電話も、無い時代でしたが、「馬車専用鉄道の工事はちょっと待ってくれ。」との、伝言が、 
住友に届いていたと、想像出来ます。 それで、馬車鉄道着工には、至らなかったのでしょう。

 明治22年6月ですが、当時でも、2ヶ月後には、広瀬の伝言が届いたでしょう。
    (広瀬宰平が、横浜を出発したのが、5月11日。サンフランシスコに着いたのが、5月28日。)
      という事は、17日間で太平洋を、横断したことになります。
    これも、想像になりますが、・・・
           横浜 5/11 −−−> 5/28 サンフランシスコ
               7/17 <−−− 5/30
               7/19 −−−> 8/7
               8/26 <−−− 8/9
  1艇で太平洋航路を運行しているとすれば、港での中 2日で、休息日・出航の準備をして、
    6月8日の、出来事は、8月の末には、船便でも、日本に届いたことと想像出来ます。
        (もし、太平洋航路を、2艇で運行していれば、8月初旬の計算になります)


 ところが、私は、明治時代をよく知りませんでした。(私の中では、明治時代は、もっと、遅れている印象がありました)
5月28日 桑港(サンフランシスコ)に到着した翌日、本店から、電信が届いた。(「住友の元勲」 より)
 調べてみると、もう、電信があったのです。
明治34年(1906)に、日米間直通海底電信線が開通しますが、
          安政元年(1854) ペリーが、日本に電信を持ってきています。
          文久元年(1861) ニューヨーク ・ サンフランシスコ間に、大陸横断電信線が完成します
          慶応2年(1866) 大西洋横断海底電信線が完成
          明治2年(1869) 日本では、東京 ・ 横浜間で、公衆電報が、開始
             4年(1871) 長崎 ・ 上海 ・ インド経由海底線で  又、シベリア経由、陸路で、ヨーロッパまで繋がっています。
 という事は、明治22年(1889)では、ヨーロッパを経由して、アメリカを横断して、サンフランシスコに着いた、広瀬宰平に電信が届いたのでしょう。
通信費も、高かったと想像します。
 広瀬宰平が、欧米巡遊の外遊費用は、1万6千8百70余円だったそうだが、 (現在の、6億円位)
この別子鉱山鉄道の導入の成果を見れば、それ以上に米欧巡遊の、効果が大いにあったと思われる。



馬車鉄道・工事事務所は、今まで進めていた馬車鉄道工事計画に、ストップがかかり、
突然、当時最先端の蒸気機関車を導入すると言う計画に、工事事務所が混乱したのは、容易に想像出来ます。
今まで作ろうとしていた常識的な馬車から、突然、近未来の蒸気機関車に、なった訳ですから ・・・

 「住友の元勲」の本の中では、
    「鉱山鉄道の敷設とは ・・・・ さすがは、総理人だ」 重任局員のなかから、感嘆の言葉が洩れる。
    とあり、明治時代に、先進文化をどんどん取り入れていく別子銅山の姿が、たのもしく感じられる。

 そして、11月の広瀬の帰国を待って、工事計画が、急速に進んだことは、想像できます。
      (最初に、蒸気機関車? 丘蒸気? と、聞いた工事事務所の連中は、ビックリしたでしょう ネ!! )
 明治23年から、上部鉄道着工までの2年余りで、旧・牛車道の上部に、迂回路として新・牛車道を作ったのだと思います。
これで、鉄道工事に止められることなく、鉱石輸送も可能になります。
毎日の、牛車による鉱石等の、輸送業務を続けながら、鉄道工事を出来ます。
鉄道工事に必要な資材も、新・牛車道から、下にある上部鉄道現場に、運び込むことが出来ます。
銅鉱石の輸送は、別子銅山の生命線ですから、1年もの間、止める訳には出来ません。
 ですから、明治23年からーー明治25年5月4日の、上部鉄道・着工までの間に、新・牛車道を作ったと思われます。
なぜ、上に作ったか?
鉄道工事を、短期間で仕上げるには、 煉瓦等、工事物資を運び上げるより、下ろすほうが、容易だからでしょう。

 そして、新牛車道・完成を待って、鉄道工事に着工したのでしょう。
 
 土地収得が、難しかった下部鉄道の着工が明治24年5月です。
 土地の問題の無い、上部鉄道が、1年遅れの、明治25年5月着工です。

                                                なぜ ???

 と言うことは、迂回路(実際は、旧牛車道の上に平行して造られた、二車線化)の、新・牛車道の完成を待って=> 上部鉄道の着工と、考えても良いと思います。



 参考までに、「クラウスの機関車追録」(近藤一郎著)によると、
クラウス社は、別子1号ー4号の、機関車 4台を、大阪の住友伸銅所から、
         1891年(M24) 12月18日に、受注し、
         1892年(M25)  6月22日に、工場から出荷しているとの、記録があります。


 普通に考えれば、1日でも早く上部鉄道を、稼動させたいので、もっと、着工が早くてもおかしくないと思います。
それが、機関車の出荷1ヶ月前の着工。
と言うことは、小野説も、現実味を帯びてくると思います。



 以上から、1年余りの短期間の工事期間で、()牛車道の下の、()牛車道を改良して、上部鉄道を開通する事が出来た。

 これで、つじつまが、合う事になります。
又、鉄道資材も、(新)牛車道がら、運び込むことが出来て、順調に工事が出来たのだと思います。