2009年末岡先生の、別子鉱山鉄道の講演では、
初期の計画では、上部鉄道は、始点の石ヶ山丈停車場は、現在よりもう少し高い位置に設置される予定だった。
また、終点の、角石原停車場は、現在の銅山峰ヒュッテのある角石原よりも低い所に設置して
第一通洞から、インクラインで結ぶ予定だった。 と、話されていました。
その後、「山村文化 13号」 平成11年発行を見つけました。
その中に、高橋幹さんが、投稿していた記事があります。
最初の計画によれば、上部鉄道は「馬60頭、馬車55両」による鉱山専用馬車鉄道を予定していた。
この時提出された見取り図によると、角石原停車場は、現在の柳谷収銅所付近(標高約970m)、
石ヶ山丈停車場は、現在の停車場より数十m高い地点に計画されていた。
石ヶ山丈835m+数十mで、900mとしましょう。 仮・角石原は、970mですから、
馬車道では、距離 5532m・標高差 70mの、ほぼ水平道となる予定でした。
最終的には、蒸気機関車を使い、835m −−> 1100m の、265mの標高差で、完成されました。
なぜ、この様な結果になったかですが、
これも憶測になりますが ・・・
明治13年に、完成した牛車道は、完成して10年余り経っていて、地盤も締まって来ていて、
レールを敷いても地盤沈下も少ないでしょう。
1編成で、40tを超えるであろう、蒸気機関車を通すには、必須の条件であったと思われる。
では、なぜ、旧牛車道の上に、新牛車道を、作ったか ?
下に、作っても同じように思うかもしれませんが、
橋脚に使う煉瓦等建築資材を、旧・牛車道を改良して作る上部鉄道工事現場に、短時間で、運び入れるには、
”荷物は、運び上げるよりも、降ろすほうが、カンタンだと言う事です。”
下に、新・牛車道を作れば、工事資材を、運び上げなければなりません。
1年余りで、旧・牛車道を、上部鉄道として開通させるためには、工区を分割して同時に工事をしていたと思われます。
工事中の、旧・牛車道は、鉄道工事で、あちこちで、寸断されていたと思います。
効率よく作業を遂行する為に、この結果になったと思われます。
キースラガー鉱床を持つ、別子銅山は、この先永遠に、繁栄すると明治中期には思っていたことでしょう。
それを背景に、5年・10年先の、採鉱計画を立てれたと思います。
別子銅山では、10年先を見て、計画を立てているのは、随所で見られます。
東平ーー>黒石索道を調べてみると、よく判ると思います。
(注) これは、あくまでも、アマチュア別子銅山研究家? の、想像論です。 私が工事責任者なら、この様にしたと思います。
現在のところ、私が知る限り、一般には、これ以上の資料は出てきてません。 アマチュアの限界です。 もし、新しい資料を見つけたら報告します。