「切り通し」の、謎

 

 同じ写真だと思いますが、色彩でイメージが違います ネ !!
気になるのは、左に見える小岩です。
牛車道が、左のルートを通っていたと言う方もいます。確かに道だった様にも、見えます。
現在は、左の大岩の後ろは、断崖になっています。石垣がずり落ちたのだろうか ? 道に使える状況ではないです。
下の写真を見てください。

 

 確かに、大岩の左部分が人工的に削られているように見えます、
上の2枚の写真でも手前部分が人工的に削られた様に見えますので、道があったのかもしれません。
想像になりますが、削った岩の下の地盤が弱かって崩落したので、「切り通し」を作ったのでしょうか ?
正解は、アール(回転半径)が、牛車の様に鉄道は小回りが出来なかったから、だと思います。
 謎は、なぜ、この切り通しを作った時に、この小岩を残したのでしょうか ?
この写真(明治40年頃)で見る限り、写真・右上の石垣の所が、この時代は、牛車道として使われていた様です。

 (上の、1,2,3枚の、写真をみると、カーブの内輪側に、脱線防止ガードが設置されているのが見えます。
日本では、半径410m以下の曲線に設置されていたが、2000年の日比谷線の脱線事故から半径200m以下に設置義務になった。
この、明治26年に、出来た上部鉄道は、最小半径 15,2mと一桁小さいが、明治44年廃止まで、無事故だったのは、
この様な配慮もあったからだろう。 広瀬歴史記念館の、入り口に、上の1・2枚目と同じ写真が大きく引き伸ばされているコーナーがある。
写真手前に実際に、レールが敷かれていて、脱線防止ガードが敷かれている。行く機会があれば、見て欲しい。
ただし、レールが大き過ぎると思っていたら、国鉄のレールを使っているそうである。
マイントピア別子の、観光坑道行きの列車線路が、当時の28封度 レールに近いだろう。)

 現在は、緑に覆われて全容は見えません。

 小岩の所に、行ってみました。
  思ったほど大きくはありません。
 計っているメジャーは、写真では、150cmです。 結局、全高は、230cm程でした。
 でも、なぜ、この小岩を、残したのだろう ???
 現代と異なり、この小岩を谷に落としても誰も文句言う人もいなかった時代だったと思うのだが ???

    現在の、「切り通し」 の、様子は、こちらです。