住友 別子鉱山鉄道・上部線

      

 明治26年 1000mを超える四国の山岳地帯に、鉄道が走った。
            (明治25年5月4日着工・明治26年8月27日開通・12月竣工)

 新居浜に、国鉄駅が、出来たのは、大正10年。
愛媛県の県庁のある松山に、国鉄駅が出来たのは、昭和2年になってからである。

如何に早くの時期に、別子・上部、下部鉄道が出来たか 理解していただけると思う。

 旧別子 −>第1通洞 −>角石原(標高1100m) −> 上部鉄道 −> 石ヶ山丈(835m)ー> 索道 ー> 端出場(156m)
このルートが出来て、輸送力も近代化され、強化されました。

  輸送手段が近代化して、鉱山活動を、より活発化させることになるのだが、
この事は、皮肉な事に、鉱山は下部へ、下部へと、掘り進むスピードが速くなり、

明治35年、東平に、第3通洞(標高744m)が、完成。
   38年、東平ーー黒石 間に、複式索道設置
   44年、日浦通洞と連結。

  しかし、明治38年に、  東平(750m) −−端出場をとばして、 なぜか黒石 への、索道が出来た。
  昭和10年 東平ーー端出場間に索道完成 (東平ーー黒石は、廃止)

  旧別子 −− 東平 −− 黒石 のルートが出来たので、明治44年に、わずか18年で、上部鉄道が廃止となりました。

この、上部鉄道の、総工費は、122,971円との記録があります。
                                            (現代では、いくらになるのだろうか ?)
 
「立川に、上部鉄道の建設工事事務所を、設ける」と、ありました。


 企業は、少しでもコストの安い方にシフトするのは、当然です。
しかし、疑問は持ちました。

  00・ 山の何処に、石ヶ山丈停車場が、あったのか ?

  01・ どの様にして、蒸気機関車を、上部鉄道まで、持っていったのだろう ?

  05・伊予鉄道と、住友

  07・坊ちゃん列車


  10・ なぜ、最初から、角石原から、端出場までの、索道を作らなかったのか ?

  15・ 石ヶ山丈 索道について

  18・ 単索道と、複索道

  20・ なぜ・東平から、端出場でなく、遠くの黒石間に、索道を作ったのか ?
       石ヶ山丈から、端出場ルートは、出来ていたはずなのに・・・


 
  30・ 牛車道を、改良して、上部鉄道を作ったと書いている本もあるが、可能か ?


  40・ 角石原ーー一本松停車場ーー石ヶ山丈  の、5,532mを走っていたが、
    終点には、列車の方向転換をさせるターンテーブル等の施設がない。
     帰りは、バックで、運転していたのだろうか ?


  41・ 10.461mあった、下部鉄道にもターンテーブルはなかった。
     それを踏まえて、上部鉄道を、考えてみた。

  43・ 一本松停車場と、索道

  45・石ヶ山丈停車場の、平面図について

  46・現在の石ヶ山丈停車場を、紹介します

  47・石ヶ山丈停車場の、凹 み、について


  50・ 明治32年 8月28日に、未曾有の別子・大水害が起きた !!
      その時、上部鉄道は、どうなったのだろうか ?



  60・ ここまで読まれて、上部鉄道に行きたくなった方は、行ってみよう !! 


  62・上部鉄道・跡の、謎の旗

  65・ 始発駅と、終着駅

  70・ 別子 1号の、エントツに関して

  75・機関車の配置はどうだったのだろう ?


  80・ 細かい数字にこだわりますが ・・・


  90・ 疑問点です。


 100・ なっとくです

 103・ 橋梁について

 105・ 脱線防止レールについて

 107・ 紫岩

 108・ 紫岩 その後の、考察

 110・ 切り通しの謎

 115・ 現在の、切り通しの状態

 117・ ミニ・切り通し

 120・ エピソード


 130・ 参考になるような、施設は ? 


 140・ 参考にした本

 少しずつになりますが、調べていきたいと思います。
100年以上も前の事ですので、当時を知っている方も、存在してないと思います。
資料・文献からの、想像になります。 当然、独断も出てきます。
歴史が、正解ですから、”答は、” あるはずです。
ここが、間違っているのでは ? と、思いましたら、ご指摘下さい。

 たかが100年前・されど100年前 分からないことが多すぎます。 「吉野ヶ里遺跡」の研究・本当の事、分かるのだろうか ?