機関車の、煙突

 別子銅山記念館の、外に展示されている 「別子 1号」の、煙突部分。

 しかし、上部鉄道の稼動時の写真は、ストレートではなく、ソロバン型である。


 資料が無いかと探していたら、愛媛県松山市の「坊ちゃん列車」・・・明治21年開業で、同じく、ドイツのクラウス社製である。
伊予鉄道100年史を、見ていると、煙突に関する記事があったので、紹介しておきます。

 伊予鉄道 1−2号(1888年製造)  伊予鉄道 3−4号(1891年製造)

   ダイヤモンドスタック型


 伊予鉄道 5−6号(1898年製造)  伊予鉄道 11−12号 (1901年製造)  伊予鉄道 13−14号(1907年製造)
   じょうご型


 道後鉄道 1−2号(1895年製造) −−> 伊予鉄道 7−8号
   ソロバン玉型

                                        ストーブパイプ型

  伊予鉄道に入った、ミュンヘンクラウス社製の機関車の煙突は、3種類あった。
 「別子 1号」は、あえていうなら、ストレート型であろうか。伊予鉄道の、改造後に近いかも知れない。
 外観形状は、違っていたが内部構造は、ほとんど同じであった。
その後、火粉の飛び火防止の為、ストーブパイプ型となった。  とも、書かれている。

 別子銅山の、山の中。当時はあまり、木々も生えてなかっただろうが、早春の枯草には、気を使っただろう。
伊予鉄道に遅れること5年。 明治26年、「別子1号」は、動き出した。
が、・・・ 。 稼動している写真は、ソロバン玉型である。
上のクラウスの製造年を見てみると、別子と同じ、7−8号の、ソロバン玉型は、道後鉄道(明治28年8月22日開業)から引き継いだようである。

「然るに、狭い松山地方に3つの鉄道が各々独立して営業していることは、経営者にも利用者側にも不利不便なので、伊予鉄道監査役 井上要は、
熱心に三社合同を計画し、先ず道後鉄道及び南予鉄道の実権者である古畑寅造と交渉して同人を伊予鉄道の社長に迎え、
自信専務となり、ここに合同の機運を開いた。明治33年5月1日から、伊予鉄道は、他の2社の業務を継承することになった。」 
伊予鉄道70年の歩み より

 私の推測に過ぎないが、
   伊予鉄道は、町の中を走っているので、火の粉対策に、せまられて改良したのだろう。
  それを、聞いて、別子鉱山鉄道関係者が、改造して、現在展示している「別子1号」の、煙突になったのではないだろうか ?