別子 1号

   


 製造 1892年 ドイツ・クラウス社
 重量 8t 

 現在 別子銅山記念館の前に、静体保存されています


 この蒸気機関車を、明治26年に、1000m近い山の上に、いかにして運び上げたのだろうか ?
別子銅山記念館で聞いてみたが、「大阪か京都に、あるかもしれないが、ここには資料はありません」 との返事でした。
山の上で活躍していたのだから、持ち上げたのは、事実です。
徹底して分解され、牛車や、人間が背負い、 あるいは、明治24年完成の索道でも運び上げたのでしょう。
当然、この時代だから、ドイツのクラウス社から技術者も組み立てに来てただろうが、その記録もない。


 牛車道は、明治9年(1846)着工 −− 明治13年 11月完成
        明治14年から、利用されていて、その距離7里(26Km)

 明治24年 石ヶ山丈 −− 端出場間に複式高架索道 竣工 (工費 3万2000円)

 明治26年 上部鉄道 完成 (工費 12万2971円)

 明治27年 鉄道の完成により複式索道は、「下荷ト上荷ノ平均ヲ失シ」 と、限界に達する。
         臨時に、立川 −− 石ヶ山丈間の、人夫運搬再開する
         単式索道の、計画が始まる

 明治30年 11月20日 ハリデー式単式索道(1585m)竣工 工費6万7237円 試運転開始

 明治31年 4月 経験不足の為失敗を重ねたが、実用化に成功して営業開始
            以後、重量貨物の上荷用 牛5頭を残し、人夫・牛車を廃止する。
            人夫1日 800人 ・ 年間 4万円の削減効果があったと言われている。

 明治44年 上部鉄道は、廃止になるのだが、機関車3両を、明治45年6月、伊予鉄に譲渡したとある。(別子鉱山鉄道略史)
         と言う事は、又分解して、山から下ろしたのだろう。


 ここからは、私の想像になりますが、機関車の釜のある本体部分は、分解にも限度があり、今までの牛車で運ぶには、無理があると考えられる。
特別仕立ての台車を何頭かの牛で引いて、当日は、対向車がないように、全面通行止めにして、慎重に石ヶ山丈停車場まで運んだと勝手に想像している。
 現代でも、発電所のタービンなどは、夜間通行止めにして、先導車に守られ、ゆっくりとした速度で大型台車で運ばれるニュースを見ることがある。
これだけの大事業で、かっちりした住友のやることだから、綿密な計画をたてて実行したのは、間違いない。
もし、この時の記録が残っているなら、見てみたいものである。


 上部鉄道については、打除から標高835mの石ヶ山丈までは部品の状態で索道で荷揚げし、石ヶ山丈駅で組み立てました。
                                    との、記述があった。 (四国の鉄道・廃線ハイキング)より ロンプ社  
が、上に書いたように、本体部分は、複式索道では無理だと思うが、いかがだろう。

 インターネット上で、見つけた文ですが、活字の本になってないので、信頼性には不安がありますが、
伊予鉄道は、ドイツ・クラウス社から、「完成品」を輸入した蒸気機関車で ・・・・
5年後、別子鉱山鉄道も同じクラウス社から部品で輸入し、「新居浜で組み立て」開通させた。
(e-niihama) と、ありました。
「クラウスの機関車追録」には、ドイツで完成した、No3の機関車と、ゲーオルク・クラウスの写真が写っている。
試運転をした後、写真を撮って、分解され、別子銅山の送られたのであろうか ?
伊予鉄道と異なり、別子銅山(当時、最先端の技術を持った技術者が、多かったと思われる)は、環境が違っていたかもしれないし、
5年前から稼動していた、伊予鉄道に、研修に行っていたかもしれない。


 上に、ドイツのクラウス社から技術者が、組み立てに来てただろう? と書いたが、友人から指摘を受けた。
明治21年(1888)10月28日から、伊予鉄道が「坊ちゃん列車」を、松山ーー三津間で運転していた。
同じクラウスの、機関車である。すでに、5年間の実績を持っているので、伊予鉄に勉強にいった可能性もあるし、
伊予鉄の技術者に協力を頼んだ可能性もある。住友は、伊予鉄の大株主でもあった。

 別子開抗250年史話には、”開通当初は、ドイツ人機関手 ルイ・ガラント 1名を雇用して運転させた”とある。
(明治26年当時・ルイ・ガラントの月給は200円だったとある。
  現在に換算すると。 月給 450万円。 何年間、指導にあたっていたのかは、判りませんが、
   ”言葉が通じなくて、上手く教えれなくて、気短になりスパナで殴りながら指導した” なんて、逸話が残されています。
     上部鉄道が、18年間無事故であったのですから、それなりの、効果はあったと思います。)

 別子鉱山鉄道略史には、 ”立川建設事務所に、技術顧問として来ていたドイツ技師某は、山根の内宮神社の石段脇で、
当時、原安太郎という人が営んでいた宿屋に下宿していた” と書いてある。

登録有形文化財になった、下部鉄道の端出場鉄橋は、ドイツのハーコート社製であり、
車両・レール・鉄橋 等一式ドイツから購入している。
 という事は、建設時から、運転に至るまでクラウス社から技術指導を受けていたのだろう。
現在では、日本の新幹線を、システムとして、総合的に輸出したい日本の現状とよく似ていると思う。

                                              松山・坊ちゃん列車
伊予鉄との関わりは、もう少し調べて見ます。