松山・坊ちゃん列車

 愛媛県総合科学博物館にある、”坊ちゃん列車”のレプリカ

 愛媛県松山市に、夏目漱石の、坊ちゃん列車が走ったのは、明治21年である。
別子鉱山鉄道より、5年も早い時期である。
 伊予鉄道100年史に、気になる文があるので紹介しておこう。


 軌条と機関車、客車などは、かねての見積どおり、東京・刺賀商会を経てドイツに注文した。。
機関車は四輪連結タンクエンヂン、重量7トンのもの二両、客車は定員12−16人のもの六両、
そのほか緩急車、貨車、轉車など一式である。
 このうち機関車は到着の上組み立てたが、客車や、緩急車は、当時のわが国では
製作も組み立ても容易でないと判断し、ドイツ・オーバーハウゼン市グーテ・ホフヌングス・ヒュッテ製造所で
組み立てたまま大箱に入れて送ってきた。

 とある。
という事は、機関車は、組み立てる事が出来ても、客車は、組み立てる事が出来なかった ?
私は、常識的には、逆だと思うのですが、機関車の動力源を組み立てる事が出来るなら、
客車位、簡単だと思うのですが、オリエント急行の客車でもないようです。
夏目漱石が小説「坊ちゃん」の中に書いてある、”マッチ箱の様な客車”ですよネ !!

 ドイツから木箱に入れ送られてきた客車(12人乗)

不思議です。謎が、又一つ増えました。
50ccのオートバイを組み立てる事が出来るのに、後ろに引っ張るリアカーを組み立てれないと同じですから ???


  という事は、新居浜の別子鉱山鉄道の上部線は、
 機関車はドイツから輸入した。上部鉄道は分解して運び、山で組み立てた。
石炭をたく”岡蒸気”だったが、機関車1台 1万6千円ナリ。
 (別子物語より)

 上部鉄道の蒸気機関車は、各部品に分解して、牛車や人間が背負って海抜1000mの
現地まで運び上げ、再び組み立てたそうです。
 (広瀬宰平小伝より)

 上部鉄道については、打除から標高835mの石ケ山丈までは部品の状態で荷揚げし、
石ケ山丈駅で組み立てました。 −−−−ーー 索道場を過ぎると石ケ山丈駅の長いホームの
石積みが現れます。この辺りで麓から索道で揚げて来た機関車の部品を組み立てていた位ですから、
かなり広い空間が石垣や排水路と共に長い距離に渡って続いています。
 (四国の鉄道廃線ハイキングより)

 明治21年開業の坊ちゃん列車は、伊予鉄道の記録によると、機関車 9、700円とある。
同じクラウス社なのだが、5年で価格が上がったのか? 仕様が違っていたのか?
別子の、16,000円との、1,6倍の価格差は、大きい。
  しかし、 (別子鉱山鉄道略史によると、 明治26年に、上部鉄道3台・下部鉄道3台、購入。価格1台 ¥6,424とある。)
                                                             なんだか、解らなくなってきました


 「海抜1,000mの現地まで運び上げ」 というのは、間違いです。
石ケ山丈停車場で、組み立てたのは、間違いないですから、835mが正解です。


 明治の時代だから、ドイツのクラウス社から、技術者が来てたかもしれない。 と、書いたが、
伊予鉄道の記録を見ていると、日本人だけで、分解組み立てが出来たかもしれない。
そして、別子銅山の技術者は、結構ハイレベルな技術を持っていたと思われる。
 開業時、上部線2台・下部線2台の機関車を導入した記録がある。
もしかすると、明治26年に、日本人だけで、組み立てれたのかもしれない。