「伊予鉄道100年史」を、読んでいると興味深い記事があった。

 明治33年5月、道後、南予鉄道を合併するに至り当社の全車両は実に126両にも達したのである。
その内訳は、機関車10両、一等客車16両、ニ等客車32両、三等緩急合造車12両、緩急車1両、
有蓋貨車16両、無蓋貨車39両である。
 この間、明治36年、皇太子殿下(大正天皇)のご来松に際し、阪鶴鉄道より購入した一等客車(い16号)を
お召し車として内外部を装飾、お召しの光栄に浴した。以後これを貴賓車と称したが、
明治44年1月、
当社の工場が火災で焼失したので、大正2年、大型1等客車のうち1両を貴賓車として完成した。
 この火災により車庫内に格納していた機関車2両、客車26両、貨車2両が消失した。
これは当社車両の客車61両の約半数に相当し、幸い災厄を免れた35両をもって常時編成するのがやっとであった。
ことに当地方最大の祭礼である”椿さん”にぶつかり、貨車で参拝客を運んで急場をしのいだのも語り草である。 ・・・・・・

 「上部鉄道廃止により、機関車3両を明治45年6月、伊予鉄に譲渡した。」とあるのは、
この様な、事情もあったのだと、思われる。

 明治44年10月 東延斜坑・第三通洞経由で鉱石と諸物資が運ばれる事となり、上部鉄道は廃止となる。
それから8ヶ月後のことだから、分解して索道又は、牛車道から降ろして松山まで運ばれたのだろう。

 明治21年に、”坊ちゃん列車”となる、クラウスの機関車は、三津へ船で着いただろうから、
これも想像になるが、上部鉄道で使われていた機関車は、神戸港から、船で送られたのではないだろうか ?
陸路は、整備も進んでいなかっただろうし、国鉄が、新居浜まで来たのは大正10年、松山まで出来たのは、昭和2年である。


 もう一つ、明治19年、「伊予鉄道」発足当時の、事情もあったと思われる。

 資金調達に、株主を募集したのであるが、授産金で、株を引き受ける物は、1株5円、一般株主は、一株10円
ところが、当てにしていた、授産金で応じた者は、20株・100円であった。
 しかし、「天は見捨てず」
讃岐金毘羅宮の宮司が筆頭株主を買って出、新居郡市ノ川のアンチモニー鉱山主が、
そして、別子銅山の支配人、廣瀬坦らがかなりの出資をし、ようやく株式申込額4万3150円に達したのである。

 (なぜ、金比羅宮司が、と思いましたが、1876年(明治9年)愛媛県と、香川県と合併しています。しかし、長く続かず1888年(明治21年)香川県が分離しました。
                                          また、徳島県も高知県と合併して四国でなく、二国の時代がありました)

 という事は、住友も、大株主だったと思われる。
 もしかすると、広瀬宰平も、伊予鉄の開通式に招待され、出席してたかもしれない。


「で、・・・相談だけど・・・ 今度・上部鉄道が廃止になるので、機関車を買ってくれないか?」
なんて、話が役員会で話された。 −−− 可能性も、有ろう。


インターネットで、調べていると、(e-niihama) では、伊予鉄道は、ドイツ・クラウス社から、「完成品」を輸入した機関車で ・・・
これには、関西の財閥である住友吉左衛門も資本参加した。 とあった。
確証は、取れていないが、住友と、結構、関係があったのかも知れない。


 このページも、解決できないままであるが、なにか資料があれば、教えてください。