紫岩 2 (その後の、考察)

 紫岩の、160m下に、端出場水力発電所へ水を送る導水路が有ります。
端出場水力発電所は、明治45年から昭和45年まで使われていました。

 紫岩の上にある、牛車道を、起点として、山がズレテいるようです。
上部鉄道跡で、1,5−3m位。
160m下部の、導水路跡では、幅も広がり、ズレも20mと大きくなっています。
昭和45年までは、もし壊れても導水路は、修理して使用しているはずですから、
この山ズレは、昭和45年以降に起きたと思います。

 一番確率の高いのは、昭和51年9月15日の下部鉄道の道床が流れた時でしょう。
1週間近く雨台風で、来る日も来る日も、雨が降り続きました。(これにより、下部鉄道が、廃止になります)
昭和51年(1976)と言えば、明治44年(1911)に上部鉄道が廃止になって65年が経っています。
使われなくなった上部鉄道など、住友鉱山の関係者は、気にしていないでしょう。
 もし、記録があるならば、住友林業が、この辺りを管理していたでしょうから、
山を見回っている時に、報告書として、記録が残っている可能性があります。
ひょっとすると、その中に、紫岩の記述があるかもしれません。
まだ、35年前の事ですから、まだ生き証人が、どこかに、居るはずです。
 家族や友人に、
 「あの時の雨は何日も続いて・・・・ 雨が上がって、何日かして、山へ見回りに行ったときには、
昔は、紫岩は、こう在ったのでけれど、あの大きな紫岩が、動いていて、ビックリしたんよ。 」 
なんて、話しているかも知れません。
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 そう言う方を、見つけ出せば結論は早いのですが、現場に行って想像するのも楽しいものです。
下の写真は、山ズレの始まりであろう牛車道です。
  

 牛車道の下に、紫岩があります。 しかし、牛車道の石垣は残っています。
と言うことは、牛車道の上から、紫岩が、滑り落ちたのではない様です。
牛車道と、上部鉄道の間に、存在していたことは、間違いないでしょう。
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 上部鉄道が、稼動していた時に、現在のような運行に支障をきたすかも知れない状態を放置していたかと言えばNOでしょう。
「切り通し」を、作ったぐらいですから、もし危なそうでしたら、取り除いていたと思います。
多分、安定した岩の状態だったのではないでしょうか。

 上部鉄道でよく見る自然岩と石垣(ハイブリッド構造)です。
安定した岩は、そのまま使い、補強の必要な所は、石垣を築く方法です。石ヶ山丈停車場でも大規模な物があります。
  紫岩でも、ハイブリッド構造だったと思います。
向こう側は石垣があります、紫岩の所は、在りません。
 しかし、下の水路は、今も残っています。
 つまり、この水路と、上の牛車道が、残っているので、この間に紫岩があったことは、間違いないと思います。

ここからは、私の想像になります。
 蒸気機関車が走っていた時は真直ぐだった?
 それが、地すべりの時に、今の状態になったと思います。
では、どうなったかと、想像しますと、 ・・・
地すべりが、発生しました


上から、流れてきた土砂が、
紫岩の下に、入り込み岩が赤い矢印の様に、回転したと考えました。


右上の、白い石で、紫岩の横滑りが、止まったのではないか。その次に、下の石に乗り上げていますので、
下の石を支点に、紫岩の下部が、地面にめり込むように、沈んだと考えました。

沈み込んだ紫岩の下が、えぐれて、側溝が、岩側に引っ張られています。
以上が、今回の私の想像になります。
紫岩の所で、あっちに行き、こっちに行き、あるいは座り込んで、色々考えた現在の結論です。

 でも、こんな事に熱中するのは、楽しくもあり、
こんな小さな事に、時間を費やす自分に、怖くもなります。
いつか、この事に興味の有る方と、討論してみたい気分です。