「普遍」について考える


 《問題事例:その2》
 

 B氏(アメリカ人)は、文部省の外国人教師として、国立大学で教えていた。 赴任した年の夏休みに、帰国しようと思って、意思表示をすると、日数制限があることを大学当局から初めて知らされた。
 「そんな重要な情報を、どうして、四月初めに知らせてくれないのですかね。 聞かれるまで黙っておくなんて不愉快ですよ。おかげで、こちらは大幅に計画を変更しなくてはならなくなりました。」
 「別にかくすつもりはなかった、と思いますが、夏休みは先のことだし、当面必要と考えられる情報だけを提供したのでしょう。」
 と、私は答えたものの、「聞かれるまでは、必要な情報を提供しない日本人」 に対するB氏の不満が、イギリス人A氏の不満と酷似していることに気づいて、 はっとした。
 ※著者はイギリス人のA氏と同様の体験をすでにしている。
(直塚玲子著「欧米人が沈黙する時」22p)

 日本人があまりその場で必要とされない情報を提供しないのには次の二つの理由が考えられます。まず、第一にいらない情報を与えることによってあらぬトラ ブルを起こしたくないというのがそれです。情報は多くなればなるほど相手に詮索される材料を与えることになります。できれば、最小限の情報の公開でその場 を切り抜けたいというのが日本人の本音でしょう。しかし、その裏にはより深刻 な理由が控えています。それは日本の社会があまりに忙し過ぎて、どうしてもその場のトラブルを最小限にし、問題を先送りにしてでもその場を切り抜けていか ねばならないという現実です。もともと日本人は討論が苦手ですし、物事を始め るに当たって原理原則を云々する十分な時間が与えられることは稀です。私も公務員をしていて感じるのですが、なぜ日本人が短期間のうちに人事異動の引き継 ぎをこなし、四月からその担当として仕事ができるのか不思議でなりません。一 般の会社にしてもそうでしょうが、異動によって今までと異なった職種を割り当てられるのはよくあることです。恐らく、外国人にとってはその変わり身の速さ は驚異の的でしょうが、どうしてもその際に本来理解されなくてはならない原理原則が抜け落ちてしまう傾向があります。

 このことについて直塚玲子氏は先の事例に続けてこう書いています。

「当面の問題には全力投球をするが、長期的な展望にたって事にあたることが不得意な日本人(私も含めて)と、まず事の全貌をつかみ、原理原則を明らかにし てからでないと、個々の事象に対する対応のし方が決められない英米人。この二つの異なった態度が誤解の原因だ、と私は考えた。(直塚玲子著「欧米人が沈黙 する時」22p)」

 確かに、私もそう考えます。直塚玲子氏はわざわざ「(私も含めて)」と書い ておられますが、逆に日本人でありながら英米人の感覚を持った場合はどうなるでしょう。実は、私の場合がそうなのですが、正直私はそのために悩むことがよくあります。英米人や私の場合は、より広く安定した仕事の基盤を求めて 普遍的な原理原則をその中に求めようとします。しかし、一般の日本社会ではそのような事を考える余裕を与えてはくれません。そのためにどうしても仕事の事 が不安になってしまうのです。それでも、郷に入れば郷に従えで私も日本人とし てそのやり方を身につけるべきでしょうか? 確かに、それによって私個人レベ ルの問題は解決するかもしれません。しかし、物事はそう単純ではないようで す。というのも、今、日本全体がこの感覚の欠如のために将来への方針を見失い かけているからです。

 一般に日本人は普遍的に物事を論じるのに一種の恐怖感を持っているようで す。それは「普遍的」に何かが決められるとそれによって必要以上に自分たちの 行動が拘束されると感じるからです。それに対して、英米人や私の場合は、まず 先にそのような原則を見いだそうとします。たとえ、その場ですぐ答が出なくて も、仕事をしながらもそのような「普遍的なもの」を見いだそうとします。それ は一度「普遍的」な原理原則を見出せば大きな誤りを犯さず、かえって自由に行動できるからです。それに対して、その場その場の都合でことを進めるやり方は最初はいいのですが、その途中で何らかの誤りがあってもそれが放置され、後に 大きな問題になってしまう事があります。さらに、このような「普遍的」原則を持たない社会はその外の人達にとって理解されにくいという難点を持っていま す。「普遍的」ということは「誰にとっても共通」というわけですから、あらゆ る人々に開かれているからです。

 このように考えてみれば、英米人や私が「普遍的」ということにこだわる理由 が分かると思います。実は、世の中をこの普遍的な立場から、いわば「普遍の相」から捉えようとするのが哲学という学問です。ですから、逆に言うと、哲学 を持たない社会は普遍的な基準を持たない不安定で、外からも分かりにくい社会 ということになります。しかし、このことはどうも普通の日本人には感覚的に捉え難い面があるようです。

「ここにはもっと深い観念が流れている。それは日本における普遍的原則の弱さであり、日本人の生命も世界のいかなる人間の生命も、同じような公理で営まれていると感じさせる思想の弱さである。(ジェ−ムズ・ファロ−ズ著 「日本封 じ込め」 115P)」

この文章はこの本「日本封じ込め」が発刊された時に最も話題を呼んだ部分で す。当時はまだバブル全盛の時代だったのですが、この「普遍的なもの」への感 覚の欠如はすでにかなりの日本人にとって意識されていたようです。

************************************





 今日、バブルの時代は遠く過ぎ、英米的なものが「世界標準」として日本にも 上陸しつつあります。しかし、「普遍的なもの」への感覚の欠如した日本人の多 くはアメリカやイギリスのまねをするのが「世界標準」と勘違いしているようで す。「普遍性」にこだわるのは別にアメリカやヨ−ロッパに限ったわけではあり ません。実は、ここでは触れられませんでしたが、イスラ−ムせよ中国にせよこ のような「普遍的なもの」への感覚を持っているわけで、「世界標準」といって も個別的な決まった形があるわけではないのです。むしろ「普遍性」を求める事 を前提として、互いに対話し合うための条件が「世界標準」ととしてあると言っ てよいでしょう。

 哲学が必要とされるのは、まさにこのような対話の場面です。ここでは、はじめから決まった答えが用意されているわけではありません。世の中の状況に合わ せて、人々は「普遍的なもの」を見いだし、開かれた「共通の理解」に至らなく てはならのないのです。しかし、このことは決して容易なことではありません。 例えば、今、アメリカを中心とした欧米諸国とイスラ−ムの国々とが対立する場面がよく見られます。実は、この背景には未来における共通の「普遍的な」共存 の基盤を求める苦しい対話の過程があるのですが、このことに気づいている日本 人はほとんどいません。そこには、新しい「普遍」を提示するアメリカと伝統的 な「普遍」を守ろうとするイスラ−ムとの新旧の対立があるのです。私は「温故知新」の精神を以て両者が新しい「普遍」を見いだすと信じていますが、正直の所、日本人はこの対立のレベルにさえ至っていません。

 私が公務員でありながらも哲学を続け、また三浦梅園の思想に強い関心を持ち 続けているのもこのような事情があるからなのです。
 
 

[←戻る]

[「ことば」のこと]