JARVIS 通信3月中旬



3月20日(月)
 今日は休み明けと時差ぼけのせいでかなりきつかった。幸いにも Statser さんのクラスが水曜日に移ったので少しは楽だったが、水曜日は日本からの学生の相手もしなくてはならないので大変である。今のうちに体調を整えておかねばならない。しかし、日本語のクラスを見せると言っても、何をやればいいのかいまいち考えがつかない。取りあえず、学生には日本についての話題か質問を用意するように言ったが、そもそも分化的な関心などはあまり持っていないから、日本の学生の方がこっちのノリに驚いてしまうだろう。J−POPがいつのまにかソウルになってしまう状況である。J−POPの軽いノリではパワー負けするのは必定である。しかし、考えて見ると最近あまり日本の新しい音楽を聴いていない。
 

3月19日(日)
 今日で春休みも終りである。カフェテリアで食事が出来なかったのが痛かったが、今日からはここで食事ができる。さっそくたくさん食べたが、生活時間帯がずれているため、朝の食事に行けなかった。明日からは何とかずれを修正しなくてはならない。
 それはともかく、こちらではローマ教皇のことがかなり大きく話題にされている。ユダヤ人に対するホロコーストの件での謝罪のことなどである。日本人にとってはピンと来ないが、これは歴史的に大変な意味を持つ。確かにカトリックは今やキリスト教の一宗派に過ぎないが西洋の伝統を依然として背負っている。ここがユダヤ人との和解の試みをすることはキリストの歴史全体に大きな意味の持つのは間違いないだろう。現在の教皇は、他にも東方教会との和解を進めたり、仏教とのより以上の対話を試みているらしいが、このようなことはかつては考えられないことであった。恐らく地球全体を視野に入れた上で何かをしなくてはならないという機運が高まっているからだろう。今のところユダヤ人の方にしても東方教会の方にしても、道は長いが伝統とその中での過ちの自覚がなければこのような動きは出てこない。ここが歴史の浅いプロテスタントとの違いである。
 

3月18日(土)
 今まで休みの日はかなり勉強していたので、この春休みは本当に休んでいるという気がする。別に音読をやめているわけではないのだが、勉強量は冬休みのときと比べて格段に落ちている。その代わり、テレビを聞いているので今までおろそかになっていた hearing の勉強をしているという感じだろうか。さすがに休んでいるとメールや掲示板に書きこむ気もなくなる。インターネットはしているが見ているだけが多い。しかし、私が休むと結構フリーズしてしまう掲示板もあるようだ。そろそろ何か書きこみたいのだが、休みあけになりそうである。
 

3月17日(金)
 昨日今日と結構寒い。と言っても日本では普通の3月の気温だろうが、日頃暖かいテキサスではかなり身にしみる。とうわけで、春休みと言うこともあり、かなり長い時間寝ていた。こんなに寝たのは久しぶりかもしれない。とにかく、せっかく身体が休んでいるので、英語は主に聞くだけにしておこう。
 

3月16日(木)
 春休みということで、今まで疲れを取るべくゆっくりしている。といっても、外国語の勉強をやめているわけではない。テレビやラジオを聞き流しているのが主だが、音読も欠かしてはいない。いま英語で読んでいるのがアメリカの哲学者ソローの「Civil Disobedience(市民の反抗)」だがこの英文にはなかなか歯が立たない。構文がややこしいこともあるが、それ以上にレトリックが分かりづらい。しかも、古いアメリカの話題なので、なかなか背景がつかめないところもある。外国語を理解するには単に語学力だけではないことを思い知らされる内容である。幸い、訳を持っているので、今から訳を参考に理解を進めようと考えているが、日本語で読んでもあまり良く分からない代物である。分量は短いので、何回も繰り返して読むつもりだが、内容そのものはそれに値すると言える。ある意味で、健全な無政府主義の精神を著わした本だが、今首を突っ込んでいる地域通貨(本当は私はこれを「コミュニティー・チェック」と呼びたい)にも関わる内容である。
 

3月15日(水)
 春休みということもあって生活時間帯がかなりずれている。今のところ、ほぼ日本時間と同じ感じで寝起きしているというところだろうか。うまく時間がずれているので来週はじめには正常に戻れそうだ。ゆっくりできるのはいいが、結局その分インターネットする時間が増えてしまった。英語を聞く時間は増えたが、やはり生の授業が一番良い教材になる。実は、来週、日本から高校生が来るので少し忙しくなるかもしれない。今のうちに休んでおこう。
 

3月14日(火)
 春休みのため私は部屋に閉じこもっていた。久しぶりにラジオやテレビを聞きまくってヒヤリングの勉強をしたという感じだ。
 ところで、3日連続になるが、 Kriterirum (試金石)について少し補足をしておこう。この Kriterirum は比較級によって意義付けられる概念に対するものとはいえ、必ずしも数量的に示されるものではない。現在の経済学は数量関係によって対象を把握しようとするが、多くの場合、あまりにも誤差が大きすぎて机上の空論となりがちである。 Kriterirum は単に対象の特徴を規定するに過ぎず、それによる数量的計算は出来ないと考えた方が良い。むしろ、これはさまざまな特徴の「重ね合わせ」によって多様な対象のあり様を明らかにするための要因の一つを示すに過ぎないと見たほうが良いであろう。このことは社会科学の対象が一義的に十分条件によって規定されないことの必然的結果だ。つまり、社会を対象とする学問では算数の計算のように一定の条件から唯一の答えが出ないので、複雑な計算をしても無意味なことの必然的結果というわけだ。社会を対象とする学問は状況証拠の積み重ねによってしか対象を論じることは出来ないと私が考えるのはかくたる理由による。
 

3月13日(月)
 春は入試シーズンだが、私のもとにも合否の話が舞い込んでいる。といっても、大学院の合否だが、なかなか社会人が大学院に入るのは大変なようである。院試には外国語がつきものだが、社会人の場合はそれほど問われないようだが、いずれにしても学会は独自の常識を持っているので、社会人にはきついところもあるかもしれない。私としては社会人としての経験やそれに基づく問題意識にもっと眼を向けてもらいたいところだ。
 それはともかく、昨日の続きだが、「より東洋的」 or 「より西洋的」の基準を「全体から部分を捉えるか」 or 「部分から全体を捉えるか」と言う形に置き換えたが、これはもう一歩進んで「全体の部分をなす要素の意味もしくは役割が周りとの関係で変化するか否か」を Kriterirum (試金石)にすることによって判明に捉えられる。ゲシュタルト心理学が示す環境による認知の変化がどの程度認められているかを Kriterirum とするわけである。ただ、これは [東洋ー西洋] の際の一面を捉えているに過ぎないのであって、これを以って一概に○○文化は東洋的である、もしくは西洋的であるとは言いがたい。私が社会科学の分野において必要条件、もしくは一般的傾向性しか割り出せないと考えているのも、 このことによる。ただ、このような Kriterirum は判断の目安にもなるし、その有効範囲を考える基準にもなる。従来の社会科学の研究者たちは全体否定と部分否定との違いもわかっていないから、自説を他説と妥協させることが出来ず、ひたすら徒党を組んで自説を守ることになる。私の見る限り、社会科学系の研究者は勉強が足りない。それ以前に、好奇心を欠いている。互いに連関しあって成り立つ社会事象に対して専門の枠内に閉じこもろうとするのは自らの学問に対する背信行為である。
 

3月12日(日)
 2週間ぶりに Tyler の町の教会に行くことが出来た。どうもしばらく Tyler に行く伝はなくなりそうだが、春休みに入ったので、とても助かる。取りあえず、食糧のほかビールを大量に買いこむ。
 それはともかく、最近インターネットの対話の流れで学問の妥当性、特に社会科学系の学問の妥当性の問題について考えている。「医療と哲学(5)」でも書いたように、このためにはパースのプラグマティズムの格率とポパーの反証可能性が前提となるのだが、それらをより具体的に運用するために Kriterirum (試金石)の観念の導入を考えている。人間の知的営為は [現実=自然] との対話だが、対話である以上、人間の側と [現実=自然] の側とのそれぞれに対応する Kriterirum (試金石)を考えなくてはならない。まず問題になるのは人間の側の問題は知的概念の設定だが、この概念はプラグマティズムの格率に従って [現実=自然] に何らかの形で具体的に対応するものでなくてはならない。ここで私が考えるのは、その概念が示す内容が比較級で示されるということである。例えば、「東洋的ー西洋的」という言葉があるが、たいていの人はこの言葉を雰囲気で使っている。しかし、「より東洋的」 or 「より西洋的」の基準を「全体から部分を捉えるか」 or 「部分から全体を捉えるか」に置くことにより、より判明に [現実=自然] の側にある対象を区分することができる。人間の概念がこのように判明ならば、対象の観測は従来の自然科学の方法、特に統計学的処理の方法を当てはめれば、白黒の目安となる Kriterirum は自ずと出てくる。ただ、社会科学の場合には、実際にはある出来事が起こる必要条件は割り出せても、十分条件は出てこないだろう。
 この上で、ポパーの反証性の原理を当てはめねばならないのだが、ここで問題になるのは、我々がどの程度の知的仮説を前提にするかである。もしデカルトの人を欺く悪霊を持って来たり、因果律そのものを否定されては反証性も何もなくなってしまう。まさに「可能性という言葉は無限定に使われてはならない(「御先祖様万々歳 第一話」)」のである。考えるに、このような無制約な可能性の導入は何らかの対象に白黒をつけようとする理論そのものの価値を否定するものであるという観点から排除できるのではあるまいか。
 長々とこのように学問の妥当性について書いてしまったのは、あまりにも社会科学をやっている人たちに哲学的センスが書けているからだ。「既存の理論を踏まえた上で自分の理論を展開しろ」と彼らは言っているらしいが、それなら「既存の哲学を踏まえた上で自分の学問を展開しろ」と言いたくなる。「既存の理論を踏まえた上で自分の理論を展開しろ」ならトンデモ本の学会でも主張できる。諸君の学会がトンデモ本の学会とどこが違うのかを判明にする基準を彼らは持っているのだろうか。哲学とはそこまで突き詰めて考える学問である。
 

3月11日(土)
 春休みに入ったので、学校は閑散としている。幸いにも、食堂は日曜日まで開いているのだが、それからしばらく閉まるのでまた食事に少し難儀する。休みは約一週間。その間いろいろしたいこともあるのだが、インターネットをしながらテレビを聞いてリスニングするのが良いかもしれない。音読は多少疲れたという感じである。久しぶりに英語でHPのネタも書きたい。休みだからといって行く所もないので、勉強のことしか思い浮かばないが、日本に帰ったら、しばらくゆっくり旅をしたい気分である。それだけ外にないのだ。しかし、日本で旅をしても汽車に乗るから結局はまた外国語の音読をしてしまうだろう。
 
 

[ことばのこと]