医療と哲学 5


  〈重ね合わせ〉の方法論
 

ところで、哲学という学問をやっていますとよく2つの質問をされることがあ ります。その1つは“哲学は何の役に立つのか?”というのもです。それに対し ては、その「役に立つ」のは一体何かを探究するのが哲学であると答えることに しています。人は自分自身を知り、またその住む世界をより広く知らなくては “何をなすべきか?”を知ることはできません。これは、前にも述べたように、 東洋医学が西洋医学よりもより何が望ましい身体の状態であるかを知っているた めに断片的な医療に陥らなくて済むことからも分かると思います。これに対し て、もう一つの問いは“哲学者の言うことはいかにして正しいと証明できるの か?”というものです。これはなかなか厄介な問題で、哲学者のみならずほとん どの人文・社会科学者が悩んでいる問題です。近代科学の方法論としてよくデカ ルトの方法論が引き合いに出されますが、その方法論が偉大なのは自然を探究す る学問の分野においてこの問いに答えるきっかけを与えたからです。彼の方法論 は、確実なものから確実なものへと推論をいわば〈つなぎ合わせ〉ることによっ て、真理に到達できるとするものです。もちろんこれだけでは十分ではなく、そ の真理とされる結論を実験などによって経験的に確認しなくてはならないのです が、少なくとも彼以後、確実な推論と自然による経 験によって真理に到達しよ うとする近代科学の枠組が整えられていったと言えるでしょ う。問題なのはこ の方法では断片的な事実をあつめることはできても、全体についての知識にはな かなか到達しないということです。例えば、経済学を例に取ると、現在の経済学 者は複雑な数学を用いて厳密な経済モデルを組み立てます。しかし、現実はその モデルのようには動いていません。この学問は社会科学の分野で例外的に自然科 学の方法がうまく行ったと見なされているのですが、実際はこうなのです。

 このように自然科学以外の学問でデカルト以来の方法論がうまく行かないのは 次のような理由があると思います。それはその学問が対象とする事象は一回だけ の特殊なものであって、その事象から他の事象を容易に結論づけることができ ず、またその故に実験によって再現することができないということです。医療の 場合、いちおう自然科学の範囲内ですからこのような困難は決定的ではありませ ん。しかし、病気が複合的な要因による場合や 特殊な個人的要因による場合を 考えれば同じような困難が見られるのではないでしょう か? 東洋医学と西洋 医学とを比較した場合、後者がデカルト以来の方法論を全面的に受け入れたのに 対し、前者には他の方法論がまだ生きているように思えます。

 私はそれは〈重ね合わせ〉による対象の全体的理解ではないかと思っていま す。つまり、現実のさまざまな事象を一定の観点から〈重ね合わせ〉ることに よって真理に到達しようとする方法です。デカルトの方法が確実なものから確実 なものへの〈つなぎ合わせ〉による演繹的推論を主軸としていたのに対して、こ の方法は不確実ながらもある程度確実な事象を多く集め、その〈重ね合わせ〉か ら真理を導き出そうとする言わば帰納的推論を主軸とした方法と言えるでしょ う。しかし、これだけではまだ問題があります。というのも、自分勝手な基準で 事象を集めて恣意的な結論を導く危険があるからです。

 実は、このような例がかつて比較言語学の世界で起こったことがあります。そ れは日本語とレプチャ語という言語とが類縁の言語であるという説なのですが、 この説は日本語とレプチャ語との単語を恣意的に、言わばこじつけることによっ て説かれたものです。後にこの説は当然のことながら否定されるわけですが、そ の否定の過程で明らかになったことは、こじつけで言語の類縁性を説明できるな ら、日本語と英語も類縁であると説明できること、そしてもし学問的な厳密さを もって複数の言語の類縁性を論じようとするならば、基本的な単語に絞って、一 定の法則に従ってそれらを比較しなくてはならないということです。まず、この 基本的な単語ですが、これには身体に関する語や身近な日常語が該当します。こ のような語は長い時代を経てもさほど変化しない傾向を持つために複数の言語の 類縁性を証明する対象として特定されます。次に、一定の法則ですが、これは訛 り方の癖によるものと言えるでしょう。言語は昔の古い言語(祖語)から今の新 しい言語に変化する際に、例えば母音の「o]が「u」に、また子音の「b」が 「p」というように変化する場合があり、このことから類縁の言語の間に音の対 応関係(音韻法則)が見出せるということです。このように比較言語学は言語の 変化という一回だけの出来事を実在の言葉から推論し結論づける学問ですが、す でにかなり方法論的にも確立されており、その数量化もされている学問です。私 はこの学問のことを日本人のルーツについて勉強した時に知ったのですが、この ように民族の類縁性を論じるには言語学をはじめ人類学、神話学、更には遺伝学 などの多くの学問の協力が必要です。比較言語学そのものも私の言う〈重ね合わ せ〉によっているわけですが、民族の類縁性を結論づけるためにはこれらの学問 の成果の〈重ね合わせ〉が必要だといえるでしょう。実際の所、このような例は 学問の中ではまだ少数なのですが、決定的な証拠はないものの、言わば数多くの 状況証拠から一定の結論を導くことは人文・社会科学の宿命と言ってよいかもし れません。*1

 医療の場合、比較言語学のようにその法則性を完全に帰納的に導き出すことは ありません。というのも、人の身体は医学的にある程度そのメカニズムが解明さ れおり、言語の変化ほど偶然に左右されないからです。しかし、その一方で、人 の身体には個人差もあり、また言語の場合のようにたくさんの比較し得るデータ を集めることは困難です。特に、東洋医学の場合はそうではないでしょうか?  東洋医学の場合、脈診や腹診などによって得たデータから、陰陽五行説に基づく 医学理論に従って、治療方法を決定します。問題はこの医学理論の部分であっ て、ここにしっかりした裏付けのある法則性が見出せなければ、責任ある医療行 為はできないことになります。長野先生の場合、この理論は「長野式処置法」の 中に示されていますが、ここにおいて興味深いのは、全体としては東洋医学の理 論的枠組を保ちながら、それを西洋医学の実証的な知識によって裏付けているこ とです。すなわち、「気流促進処置法」において中国医学の古典的枠組を踏まえ た「長野式処置法」の基本を示し、他の処置法において西洋医学の成果に基づく その具体的処置法を導いています。「気」の概念自体はある意味で抽象的でその まま実証されるようなものではありません。しかし、その現れとしての身体のメ カニズムを検証することによって「気」そのもののあり様を見ることができま す。それが実際の身体内部での血や水の流れ具合であったり、自律神経系や内分 泌系の状態だと言えるでしょう。また、このような身体内部の状態の変化がより 具体的にその外界との関わりにおいて粘膜の状態や免疫力の強さに反映します。 このような「長野式処置法」の特徴は、実際の身体メカニズムを通して身体全体 を論じる東洋医学の思想的枠組を検証し、時として再構築できる点にあります。

 ある理論が科学的であるためには次の2つの条件を満たす必要があります。ま ず、その中で用いられている概念、例えば「気」のような概念が、その理論を現 実に適応する際に何らかの形で具体的な意味を持っていることがそのひとつ。そ して、その理論そのものが何らかの現実によって反証され得るものであって、そ の場しのぎの言い逃れでいつまでも維持されないことがその二つ目です。この 点、従来の陰陽五行説はこの身体のメカニズムの裏付けに乏しかったために、そ の理論の検証が困難でありました。従って、今までの東洋医学は、経験的な裏付 けはあったものの、それを説明する理論においてこのような科学的厳密性は満た されていなかったように思います。その意味で、「長野式処置法」は東西医学の 成果を実際の医療に生かし、〈重ね合わせ〉ることによって抽象的に全体を論じ る 中国の医学思想をより具体的なものとする方法論をその内に含んでいると言 えるでしょ う。*2
 

*1 比較言語学は音の変化のほかに、語頭に来る語の 種類、用いられる音 の種類、語順など多くの要因を 考慮することによって複数の言語の類縁性を根 拠づけます。この点でもこの学問は〈重ね合わせ〉の方法の典型を示しています が、ここでは音韻法則の例 として日本語(東京方言)と琉球語(首里方言)と の語の対応関係(安本美典氏「日本語の成立」46・47p より引用) を掲げたいと 思います。一見して分かるように、日本語の「o」は琉球語の「u」に対応して います。
 
意味 日本語 琉球語
tokoro tukuru
mono munu
kono kunu
kado kadu
kosi kusi
tosi tusi
siro siru
too tuu

*2 この2つの条件はパースのプラグマティズムの格率とポパーの反証可能性 の原理に基づいています。いずれも学問が確実であるために近代の科学哲学が見 出した基本原則と言えるものです。
 

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