医療と哲学 4


  〈重ね合わせ〉の場としての人格
 

 今まで私は身体を一つの全体をなす機能体として述べてきました。〈重ね合わ せ〉の論理もその立場から考えてきたわけです。しかし、これだけでは医療にお けるこの論理の意味を述べたことにはなりません。確かに診断としての「証」や それに基づく鍼灸処置はこの論理を前提にして成り立っているということができ るでしょう。しかし、人間そのものがそれを越える環境の中で生きている以上、 更にこの論理によっていかに人間の病がその中で位置付けられるべきかを考えな くてはなりません。

 「機能体」である以上、人はその周囲の環境から離れて生きることはできませ ん。環境が悪化すれば、身体もおかしくなりますし、それが良好であれば、健康 の維持も容易にになります。しかし、人は単純に1つの環境の中で生きているわ けではありません。人がさ まざまなものと関わって生きている以上、環境も単 一というわけではないのです。私は この環境について大きく自然環境と社会環 境とに分けることができると考えています。普通、我々は医療に関しては自然環 境の方を主に考えがちですが、ストレス学説によって明らかにされているよう に、社会環境も人の精神状態に直接的にかかわる点で重要な意味を持っていま す。しかし、西洋医学の立場からすれば、この2つの環境を総合的に考慮するこ とは困難であったのではないでしょうか? というのも、〈つなぎ合わせ〉の論 理によっている限り、2つの環境の違いを明確にすることができないからです。 これに対して、東洋医学は〈重ね合わせ〉の論理によって、この違いをを明確に しつつ、それを統一的に把握できるのではないでしょうか?

 私はこの例を長野先生の「全人格的診療」の中に見ることができると思ってい ます。というのも、この「人格」こそこれら2つの環境の〈重ね合わせ〉の場で あり、病気とはこの〈重ね合わせ〉の異常の現れにほかならないからです。長野 先生のこの診療態度はその『治療に当たっての患者への基本的指導』の部分に端 的に示されています。

治療は、診察によって得られた情報に基づき、適正な処置法を組み合わせて処置 してゆくのであるが、その大前提として病気を治すのは病人その人であり、医療 はそれを側面的に援助し補完するものであるという考え方に立ち、その病人が何 故病気に罹ったかのプロセスを検証させることから始めねばならない。何故な ら、今罹患者している病状には、今までの日常生活の中に納得されるような病因 が潜在しているからである。(『軌跡』35p )

この章の中では直接的に触れられているのは自然環境の方ですが、「ハンス・セ リエのストレス学説」に着目し、患者個人の人格形成に注目している点において 私のいう社会環境も同様に重視されていると言ってよいでしょう。いずれにせ よ、実際の医療行為においては単に身体的な症状の生理的な治療のみならず、患 者自身に対する人格的な関わり、すなわち信頼関係が要求されていると言えま す。最近インフォームド・コンセントという言葉がよく話題になりますが、医療 の場では、東洋医学、西洋医学の違いなく、医師と患者とのこの信頼関係が問題 とされていることを示しています。

                      人 格
  自然環境       ↑       社会環境
     \      ┃      /
      \     ┃     /
       \    ┃    /
        \    ┃   /
         \  ┃  / 
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           \┃/
 精神的側面━━━━━━╋━━━━━ 身体的側面
            /┃\(病)
           /  ┃ \
          /  ┃  \
         /    ┃   \
        /     ┃    \
       /      ┃     \
      /        ┃       \

       病気における全人格的な場


 この人格の場における2つの環境の〈重ね合わせ〉を図示したのが上の図で す。ここでは、時間の流れに従って、軸をなす人格の線に 社会環境と自然環境とが交わる形になっています。また、人格には身体的側面と 精神的側面との2つの側面があり、その異常としての「病」はそれぞれの側面に 即して現れるようになっています。人はこの2つの環境と常に関わりながらその 歴史をつくり、その人格を形成しています。ここで興味深いのは、人格の場にお いて2つの環境が交差する際に、先程の「ルビンの盃」で示したよう に、社会 的な影響が自然的なものに、自然的影響が社会的なものに反転することです。具 体的に医療に関して言います と、社会的なストレスが肉体的な疾病として現れ たり、自然的な障害が精神的なストレスとして現れるということです。「図」と 「地」との関係によって表現するならば、人格の「場」とは、ある時は社会的な 影響が「図」となり自然的な影響が「地」となる形で人格が形づくられ、またあ る時はその逆の形で人格が形づくられるという相互反転の「場」とも言えるでし ょう。ですから、普通の医療行為においても、精神的ケアと身体的治療との関係 が互いに「図」と「地」の関係を保ちながら一つのものとなっていることが要求 されるのであり、そこに「全人格的診療」の意味もあるのではないかと思いま す。

 この「全人格的診療」において身体的側面に関わる具体的な処置法が「長野式 処置法」における「粘膜消炎処置法」と「免疫強化処置法」と言えるでしょう。 というのも、「粘膜」は機能体としての身体が直接外界と接触する場所であり、 また「免疫」とはその外界からの異物に対して身体を防衛する機構であるからで す。ここに先程の図における2つの環境の〈重ね合わせ〉の身体の側面における 現れが見て取れるのではないかと思います。私のつたない経験から言いまして も、体調の不良はまず粘膜の異常となって現れます。それは胃の粘膜の炎症であ ったり、目の奥の粘膜の痛みだったりするわけですが、多くの場合、単に身体的 な疲れのみならず、精神的な疲れがその背景にある場合が多いのです。胃の粘膜 の炎症などはその典型でしょう。また、このような時によく風邪をひいたり下痢 をしたりして、自分の免疫機構が低下しているのを同時に実感します。精神的な ストレスが免疫能力を低下させることは広く知られていますが、ここにも社会的 な環境と自然的な環境との身体・精神両側面における〈重ね合わせ〉を見ること ができるのではないでしょうか? いずれにしても、長野先生がこの2つに着目 して処置法を提示されているのは重要だと思います。特に、「生体の第一線の防 衛機構としての扁桃(『軌跡』109p)」に着目 されているのは注目すべきだと 考えます。というのも、扁桃こそ「免疫機構の一環とし て、抗体産生の場を持 つとともに、解剖学的位置からしても外部からの細菌、ウイルス、異物等に最も 接触しやすい感染門戸としての場(『軌跡』108p)」であって、粘膜としての特 性と免疫機構としての役割とを兼ね備えているからです。*1

 このように、実際の処置において〈重ね合わせ〉の身体的・生理的側面が重要 となるわけですが、再び「全人格的診療」に話を戻しますと、現代の病気の原因 の多くが自然的環境と社会的環境との不調和にあるように思えてなりません。そ もそも人間とは自然的な生き物であり、それに適応するようにできています。ま た、それ自身、自然の一つとして独自のリズムを持っています。ところが、人間 社会の増大、いわば文明化によって人間の持っていた環境への適応リズムが狂っ てきました。夏は本来暑いものなのに、冷房をつけて一日中仕事をしたり、体の 調子が悪くても仕事の期限に間に合わせるために無理を続けることが多くなって きているのではないでしょうか? 実際、私が体をこわして長野先生のお世話に なったのもこのようなことが原因なのですが、人格の〈重ね合わせ〉の場におい て自然環境と社会環境とのバランスが崩れてきているように思えます。それは一 方で、地球の温暖化やオゾン層の破壊に見られる地球規模の環境破壊も引き起こ しており、自然環境も自然としての人間も共にそのために変調をきたしていると 言えるでしょう。私はこのことについて自然環境は〈重ね合わせ〉の論理によっ ているのに対し、社会環境が〈つなぎ合わせ〉の論理によっているためではない かと考えています。すでにコンピューターのプログラムを例にとって述べたよう に、〈つなぎ合わせ〉の論理は大きくなるにつれて限りなく複雑化し、結局は 「複雑さの壁」にぶつかるからです。このような社会の中で人は できるだけ間 違いを犯さないように細心の注意を払って仕事をしなくてはなりませんが、 これが現代社会のストレスの原因となっています。東洋医学はこのストレスによ るさまざまな現代病に効果的ですが、東洋医学に見られる〈重ね合わせ〉の論理 が実はこれらの病気の原因となっている社会を論じる際にも大きな意味を持って いるのです。
 

*1 黄帝内経では病気の重さを皮・肉・骨の3つのレベルに分けています。病 気の原因である邪気が外から侵入するものと考えれば、予防の要ともなる皮のレ ベル、すなわち粘膜や扁桃についての処置が肝要になると言えるでしょう。しか し、私は更に進んで、皮のレベルをホルモンや自律神経などの身体全体のバラン スの崩れ、肉のレベルを各臓器の障害、骨のレベルをガンなどによる細胞そのも のの侵食と考えます。東洋医学は最初のレベルの病に、西洋医学は第二のレベル の病にそれぞれ有効ですが、第三のレベルの病には両方の医学の協力が必要では ないかと思います。この意味で、身体・臓器・細胞の各階層を考慮し得る〈重ね 合わせ〉の論理は有効であり、また長野先生の「全人格的診療」のような患者と その環境とを同時に把握する観点が求められていると言えるでしょう。
 
 

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