医療と哲学 6


  東西医学融合の可能性
 

 今まで私は一般的な言い方に従って「東洋医学」と「西洋医学」という言葉を 使ってきました。しかし、厳密に言えばこのような言い方は正しくありません。 というのも、「東洋医学」の語が示しているのは「中国医学」及び日本の「漢方 医学」などのことであり、西洋医学が示しているのは「近代西洋医学」のことで あって、ここではインドやチベットの医学、更にはイスラーム文化圏の医学など が考慮されていないからです。一般的に、西洋医学は断片的視点に立ち、東洋医 学は全体的な視点に立つと言われていますし、私もそのような立場から今まで論 を進めてきたわけですが、同じ西洋医学でも古典ギリシア時代のヒポクラテスの 医学を見ても分かるように、近代以前の伝統的医学は全体のバランスを重視する 立場を取っています。一方、中国医学を他の伝統的医学と比べてみると「気」の 概念に基づいて身体を流動的なものとして捉える点でかなり特異な医学と見るこ ともできます。というのも、他の伝統的医学では身体を構成する各要素のバラン スを重視するのですが、それらの要素がヒポクラテスの四体液説のように独立し て存在しているのに対し、「気」の現れである「陰」「陽」はそのように独立し た実在として取り出せるモノではないからです。例えば、それは「右」が「左」 を前提としてあり、「上」が「下」を前提としてあるようにです。こうしてみる と、中国医学及びその影響の下に発展した日本の漢方医学と他の伝統的医学とは 区別して考える必要があるのではないかと思います。*1
 

               近代的
                ↑
                ┃
                ┃
                ┃     西洋近代医学
                ┃
                ┃
                ┃
                ┃
      現代中国医学    ┃
                ┃
                ┃
東洋的 ← ━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━ → 西洋的
                ┃
          漢方医学  ┃
                ┃  イスラーム医学
                ┃
                ┃  インド・チベット医学
                ┃
                ┃  ヒポクラテスの医学
    古典中国医学      ┃
                ┃
                ┃
                ↓
               伝統的

           各位学の時代的・地理的分類

             


 このことを図示したのが上の図です。ここでは縦軸が 〈現代的ー伝統的〉度合を示し、横軸が洋の東西の度合を示しています。私のよ うに哲学をやっていると、通俗的に東洋と西洋との思想を区別することに警戒感 を持つようになってきます。というのも、日本人が東洋的思想としてイメージす るのは中国思想や大乗仏教の思想ですけれども、実は東洋には他にもバラモン的 なインド思想やイスラーム思想などがあるからです。同様のことは西洋の思想につ いても言えます。日本人の多くはキリスト教を西洋的なものの代表のように考え ていますが、元来それはアジアで生れた宗教であり、後にヨーロッパ世界に入っ てきたものです。また、ロシアをはじめとしたスラヴ世界のキリスト教(ギリシ ア正教)は、普通日本人がイメージするヨーロッパのキリスト教とはかなり趣を 異にしています。いずれにしても、医学にせよ哲学にせよ「東洋」と「西洋」と はさほど明確には区別できないのです。

 何故このようなことを私が敢えて指摘するかというと、このような通俗的な解 釈で安直に西洋医学やその思想を批判する傾向が時折見受けられるからです。そ の代表がデカルトの二元論に対する批判でしょう。確かに彼は物質(身体)と精 神(心)との二元論を唱えましたが、単にそれらを分けたままにしたわけではな く、いかにして結び付けるかにその思想的努力の多くを費やしました。問題なの はデカルトのこのような努力を顧みることなく、身体を単純に物質として割り切 ろうとした近代人の方です。ここで少なくとも言えることは、思想にせよ医学に せよ東洋と西洋との融合は単純に近代的西洋的な考えを二元論として否定するこ とでは達成できないということであり、むしろ近代科学の成果を批判的 である にしても受け入れることでしか達成されないと言うことです。意外なことのよう に思われるかもしれませんが、近代西洋哲学者の努力の多くはカントにせよヘー ゲルにせよ、いかにして近代的な物質主義、機械主義を思想的に乗り越えるかと いうことに費やされてきたと言っても過言ではありません。このことをよく示し てくれるのがヘーゲルの悟性(Verstand)と理性(Vernunft) との区別です。こ れらは同じ人間の知的能力に属するも のですが、彼は悟性よりも理性の方を重 んじ、単に悟性的であることを強く批判しま す。一見、悟性と言うと仏教の 「悟り」をイメージしてしまいますが、実は反対で、これは仏教が退ける「分別 知」のようなものを意味しています。いわば、悟性とは物事を断片的に分けて捉 え、それを〈つなぎ合わせ〉ることによって世界を理解しようとする知的能力で す。これに対して、理性とはより高い立場から物事を全体として捉えようとする 知的能力 と言えるでしょう。ヘーゲルといえば一般に西洋的思想の権化と見ら れる人物です が、私はこのような考えの中に東洋と西洋との思想的融合の出発 点があるのではないかと思います。

 今から10年ほど前、ニューサイエンスの運動が注目を浴びたことがありまし た。これは日本では昨年のオウム事件でほとんど下火になったのではないかと思 われるのですが、この運動の提示した近代科学の問題は根本的なものでした。こ の運動の主張する所を一言で言えば、近代科学は世界を部分の集まりとして断片 化して捉えるが、新しい科学はそれを全体として捉えねばならず、そのような考 え方の地盤を提供するのが東洋の哲学思想であるということになります。この運 動は本来デカルトの二元論を批判しつつも、その成果を重視し、現代科学のあり 方を踏まえた上で新しい科学のあり方を模索しようとするものだったと思いま す。ところが、実際にはデカルトを非難し、その代わりに東洋思想を持ち込む一 方、オカルト的ないまだ不明確な事象を無理をして説明づけようとするようにな りました。その姿は近代科学を否定しようとするあまり、現実から遊離して、自 らの言葉に酔ってしまったようにも思えます。しかし、東西医学の融合のために は、まずいかにして現実を捉えるかが問われなくてはならないでしょう。このこ とは長野先生の『軌跡』の第一章の冒頭の文句にも見て取ることができます。

筆者の鍼灸治療の基本的理念は、「気」のコスモロジー的世界観を基盤に据える ことである。すなわち「気」実在の感得から出発する。このことは単に、抽象的 概念や哲学的観念論ではなく、私の具体的な日常生活や、実地臨床の根源的エネ ルギーである。(『軌跡』1p)

長野先生の医療態度の最も注目すべき点は、背後に哲学的な関心を持ちながら現 実的事実の中にその拠所を求め、それによって独自の「処置法」を築きあげてき たことです。哲学 はいかに現実に対処するかという方法論をその内に含んでい ます。医療の場合にも同様 で 、患者や病気にいかにして対処するかという基本 的方法論を持たなくてはならないと 思います。ニューサイエンス運動の場合、 その衰退の原因は、彼らの多くがデカルトを批判しながら彼の科学思想上の最大 の功績である科学的方法論を学ばなかったことにあります。というのも、堅実な 方法論なしで学問は現実的な成果を上げることはできないからです。このことは 実際に医療の現場にいる人々にとっては当然のこととして納得できるのではない でしょうか?

 このように、ニューサイエンスの運動は一時的なものに終りましたが、現代の 科学は確 実に“全体をいかに捉え得るか?”という方法論を模索し始めていま す。これについて は、“いかに人間の認知や思考をコンピューターの中に再現 するか?”という人工知能の問題が関わっているのですが、従来の科学の枠組を 越えた広い関心を呼んでいるのは確かです。私の〈重ね合わせ〉の論理もそのよ うな問題意識の中で生れたものであり、長野先生の『東西医療融合の試み』と軌 を一にするものと言えるでしょう。
 

*1 中国医学と他の伝統的医学との違いについては石田秀実氏の「中国医学思 想史」 150ー151p にすでに指摘されています。ここで石田氏はこの違いの原因 をプラトン哲学などに見られる心身二元論に求めているようですが、私はむし ろ、前にも述べたように、それぞれの言葉の特性にあるのではないかと考えてい ます。
 
 

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