医療と哲学 L


  おわりに:一哲学者として

 実はこの原稿のコンテ(草案)を書き上げた頃、『季刊 iichiko  No.37 』が私の目に留まりました。それは清水博氏の「場所」を主軸概念とした 生命論理についての特集だったのですが、それは本当に興味深いものでした。も ともと清水氏も私も共に自然をいかに全体として把握するかという問題意識に立 ち、それぞれの考えも似通っている所も多いのですが、驚いたのはそのことより むしろ、その学問的態度です。今、私は長野先生の著作をもとにしてこの文章を 書いているのですが、清水氏も単に研究室に閉じこもるのではなく、「柳生真陰 流」をもとにその論理を展開しているのです。私は哲学者で清水氏は科学技術者 という違いがあるのですが、真理を探究するために実践の場に目を向けているこ とは共通しています。医療の現場も「柳生真陰流」も人の命にかかわる現実の場 です。このことは「臨床においては学理的解明よりも、治癒事実の方が優先され なければならない。いかに学理的解明がなされても、生命が終ってしまえば、も うそれは医療ではない。(『軌跡』自序8p)」という長野先生の言葉にも見て取 れるでしょう。学理的なものは常に現実に裏付けられなくてはならず、そのため の現実的緊張感がなくてはならないのです。

 私がこのようなことを敢えて言うのは、今の哲学の世界にこの感覚が欠けてい るからです。今、哲学として語られているものの多くは批評か文献学とでも言う べきもので、それらはテキストについて云々することはできても、決して言葉の 世界の外に出ることはあり ません。これは哲学が現実の世界に対して決定的な 責任を持っていないことを意味しま す 。一方、公務員になって気付いたのです が、社会的労力の多くを占めている事務的な 仕事 には全く基礎理論というべき ものが見当たらないのです。現実の世界は法律や会計 などの事務で動いている のですが、基礎理論も一貫した方法論もなく日々の仕事が続くのです。このこと は必然的に私を社会学に導きました。その時、その出発点となったのが自然を全 体として捉える哲学です。けれども、今までそのための具体的糸口がなかったの です。

 この意味で『軌跡』は私にとって画期的なものでした。それは私の思索にとっ て現実への通路となったのです。今、清水氏のように哲学者以外の多くの人々が 哲学的にも注目すべき考えを発表しており、私のような考えも少しづつ広がって いるようです。私としては哲学の責任ある研究が長野先生の医療のような実践の 場に何らかのお役に立てばと思う次第です。
 

 ー参考文献ー

※ ここでは長野先生の「鍼灸臨床わが三十年の軌跡」以外に参考にした文献 を掲げておきます。

「中国医学思想史」 石田秀美  東京大学出版会
「東洋医学」 大塚恭男  岩波書店
「脳内革命」 春山茂雄  サンマーク出版
「『気』で観る人体」 池上正治  講談社
「三千年の知恵 中国医学のひみつ」 小高修司  講談社
「らくらく気功健康法」 林茂美・林誠  永岡書店
「映画の弁証法」 エイゼンシュテイン  角川書店
「日本語の成立」 安本美典  講談社
「季刊 iichiko AUTUMN 1995 No.37 特集・地球環境の文化学W」
 


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