JARVIS 通信4月中旬



4月20日(木)
 インターネットでの触媒実験を進めているが、そのためにどれだけの文章を書いただろう。私はメールの文章でも普通の人が論文を書く時くらいのメモリーを使うから結構疲れる。そろそろ外国語の勉強に戻らねば。無理か。
 

4月19日(水)
 そろそろ私が大分に帰る時期も近づいてきたが、東テキサス滞在中、インターネットのコミュニケーションの可能性をいろいろと試すことが出来た。多少、外国語の勉強の時間が食われたが、それだけの成果はあったと言える。その中でも最も目を引くのは Kokiriko 響子さん(通称)によるゲゼルの「ロビンソンの物語」のマンガ化であろう。この「ロビンソンの物語」は以前ゲゼルの経済思想を最も分かりやすく示したものとして森野さんがMLで紹介し、私がHPに臨時掲載したものだが、これを響子さんがマンガ化したのである。すでに本人のHPに日本語の版が掲載されているのだが、話はどんどん広がって、すでにドイツ語版が公開されている。他にも英語版をはじめ、ポルトガル語版、スワヒリ語版が出来そうな勢いだが、取りあえず日本語版とドイツ語版のあるページをご紹介しよう。

   マンガ日本語版「ロビンソンの物語」    http://www1.gateway.ne.jp/~kokiriko/shumi/manga/robin/rob_000.htm

   マンガドイツ語版「ロビンソンの物語」   http://userpage.fu-berlin.de/~roehrigw/gesell/robinsonade/ROBDE_01.htm

   「ロビンソンの物語」オリジナル日本語訳 http://www.oec-net.or.jp/~iwata/Robinson.html

このようなコミュニケーションの広がりはインターネットならではのことである。長年経済学の問題に取り組んでこられた森野さんを軸にここまで話が広がってきた。私はいまインターネット上でのコミュニケーションの触媒実験をしているのだが、ここに典型的に見られる人と人とのつながりがどれだけインターネットによって促進されるかを見るのがその目的である。具体的には、MLと掲示板、掲示板と掲示板とを共通の話題でつなげることによって、どれだけ異なった関心や能力を持つ人がコミュニケーションできるかを試したいわけである。すでに響子さんの [KOKIRIKO ROOM] の掲示板では「うる星」を題材に地域通貨の話を展開したのだが(いずれどちらかのHPで公開予定)、これが縁で [伊藤和典公式HP] にも顔を出すようになった。インターネットは電子メールのやり取りやHPの公開が基本だが、これからはそれらを踏まえてMLや掲示板を介したコミュニケーションのネットが広がって行くだろう。
 

4月18日(火)
 今日 Wellmon さんのクラスで Dialektik (弁証法)の話をした。時間が押してしまったので、最後の5分少ししか話が出来なかったが、非常に好評であった。内容は Dialektik が dialogue (対話)から来ていること、それはディベートとは違うことから入った。ディベートは勝ち負けの決着がつけばそれで終りだが、dialogue はそうではない。むしろ、互いに問題点を見出し、それを解決することによって限りなく進展して行く。この問題点を見出すことが、議論そのものを反省することにつながり、その前提を検討することに人の目を向ける。ディベートも相手の議論の前提を問うが、それは相手を否定するために過ぎず、議論そのものを高めることにはつながらない。このような反省によって得られた新たなより広い視点が相互に対立する意見を統合するための新たな地盤となる。Dialektik は今まで否定的な側面のみが強調され、和解をも含むその統合の側面が見落とされがちであったが、それについても言及した。かつてのマルクス主義者は自己の正当化のために Dialektik を否定の論理としてのみ捉え、敵対勢力にブルジョアなどの汚名を着せて勝手に攻撃をしていたが、本来の Dialektik 決してそのようなものではないとも力説した。また、形式論理と比較しつつ話したが、形式論理が決められた要素からの結論の導出に過ぎないのに対し、dialogue は新たな発見のための論理であることも説明した。これはクラスそのもので話題になっている、歴史研究の方法にもつながるものである。いずれにしても、Dialektik クイズ番組のように正解を出したらその問題はそれで終わりというわけではない。ミリオネアーというクイズ番組のネタを話したが、結構受けた。せっかくなので、メモ書き程度ではあるが、学生に配ったレジュメを下に示そう。

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  What is 'Dialektik (dialectic)' ?

 (Dialektik as a dialogue)

A: I think that ---.
B: But I do not think so, because there is exception, even if it sounds true.
C: It is because ---. If you think ---, there is no problem.

 A= thesis (an sich = at self)
 B= anti-thesis (fur sich = for self)
 C= Synthesis (an und fur sich = at and for self / integration)

1. Originally Hegel's Dialektik is the process integrate something through denial. Denial is sometimes regarded as conflict but it contains the moment of new reconciliation.

2. Dialektik is a process of reflection. Through denial we can find the limit of our opinion. It lead us new wider point of view.

3. Dialektik is a process for construction through integration whose base is founded in this point of view.

4. Dialektik logic is different from formal logic as development. Formal logic leads some conclusion automatically from already decided elements.

5. Marxist misunderstood 'Dialektik' as simple denial logic of conflict. For their point of view historical process developed  through the conflict between different classes (Proletarian and Bourgeois) based on material productivity.

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4月17日(月)
 Statser さんの招きで教会の学芸会を見ることになる。一言でいえば too simple! Das ist zu einfach!! ということになろうか。普通の日本人には見せられない代物である。例のごとく、悪気がないのが特徴である。内容はたまたま事故やなんかで死んだ人が天国に行くか地獄に行くかの判定の場に立たされる話である。詳しく話すと顰蹙を持たれかねないので、敢えて大まかな感想だけ書くが、どうして世俗的な基準で天国と地獄行きの振るわけが出来るのかと言いたくなる。そもそも神の裁きは人の基準を超えているのだから、あなたは酒のみでいい加減な生活をしていたとか、金に目がくらんだ生活をしていたとか、世俗の忙しさにかまけて教会に行かなかったとかといった理由で地獄送りされてはたまらんと思う。ま、学芸会だからとも言えるのだが、ほとんど天国行きの乗りが(最後の場合を除いて)Millionnea というクイズ番組の解答に正解したときの乗りであるところが実にアメリカ的である。この国では、天国も地獄もすでに既成のものであって人の心がそれを生み出すものでである言う宗教意識には至っていない。昔ラジオで聞いた話だが、天国と地獄との差は銭湯において見出されるものだそうだ。みんなで仲良く背中を流し合って入れば天国だが、ケンカをしながら入ると地獄である。仏教的な立場からすれば、天国も地獄も人の心の現れである。キリスト教的に言えば、その個人と神との関わりの結果ということになろうが、そのくらいの説法はしてもらいたいものである。その意味では、Tyler の First baptist Church はかなりまともである。期せずして昨日書いた「The American responeiblity」の内容がズバリ当たった感がある。
 ただ、一言弁明をしておくと、この教会にはかなり黒人やヒスパニックの人がきていた。これはこの教会がコミュニティーとして正常に機能していることの証である。下手をするとカルト的とも思える点もあったが、とりあえず田舎なので大目に見よう。
 

4月16日(日)
 今日ようやくアメリカについての英文のHP原稿である「The American responeiblity」の草稿を書き上げた。他に引用部分の打ちこみや、チェックが残っているが、一息つける。公開は大分に帰ってからになるだろう。その中でも触れたのだが、アメリカの最大の問題点は二元論を中心としたいくつかの世界の隔離である。アリストテレスは月の内側の世界と月の外側の世界では異なった法則が働いていると考えていたが、それと同じ問題点がアメリカをはじめとした近代社会には見られる。近代は自然科学に典型的に見られるような普遍主義の側面もあるので、このことは理解に苦しむことになるかもしれないが、アメリカ人が自分たちのルールをあまりに普遍的だと感じているので、ルールの中の政界と外の世界との分裂が起こっているのが問題なのである。世界的に見れば資本主義のルールを受け入れた人々と受け入れられない人との格差、アメリカでは意欲的にこの国のルールに参加した人々とそうでない人々との格差が問題となる。内容としてはこの一年の勉強の成果を披露しているところがあるので、こちらに来て今まで読んだ英文からの引用が相当多い。これらは意図的にアメリカを知ろうとして読んだものなので、恐らくアメリカ人にとってもインパクトのあるものとなろう。
 

4月15日(土)
 例のうる星ネタで地域通貨の話をした余韻で、最近アニメや時代劇などのネタを使うことがある。時代劇といえば、いま日本ではどんなのをやっているのだろう。水戸黄門はいまだに健在だが、私は大学生くらいのときからほとんど見なくなった。大分にいたときは昼のテレビが見れたので、昔の時代劇の再放送なども時折り目にしたが、アニメで鍛えられた目で見ると結構良く出来たストーリーのものもある。勧善懲悪と人情が時代劇の原点だが、これを本当に生かしたストーリを作るのはなかなか大変だ。確かに一定のパターンはあるのだが、その上で人を感動させるがこの時代劇の妙である。時代劇全盛の頃は「この卑怯者めが」というセリフもよく耳にしたが、最近は「卑怯者」という言葉は死語である。うる星でテンちゃんがあたるに向かってたびたびはいていたことは覚えているが、それ以来あまり耳にしない。オウム事件のときも彼らのやり口は卑怯だと感じたが、ほとんど「卑怯」という言葉を耳にしなかった。最近のカルト集団は自らの名前を隠して布教をするが、布教をする側も布教をされる側も自らの名も名乗れぬ奴を卑怯とは思わないのだろうか。「おれの名前を知りてぇーか!? 」というのは昔の時代劇のセリフだが、初期のうる星でちょっと耳にして以来、とんと耳にしない。最近の日本人は悪に対する怒りの感情を忘れたようにさえ思える。
 

4月14日(金)
 今日の日本語の授業の乗りは良かった。結構みんなやる気である。「××が すきです/きらいです」の構文を導入したが、これは結構使えるので反応が良い。前回の動詞分の欧文とも合わせて、「ラップで日本語」を提案して見たが、来週からこのラップで授業が出来ると、とても楽しいと思う。
 

4月13日(木)
 Wellmon さんの歴史の授業で弁証法とマルクスの話が出た。かの「階級闘争」の話も当然出ていたのだが、アメリカでマルクスの話を聞くことになろうとは思わなかった。というわけで、私はヘーゲルの論理学を大学でやってたんですよと言うと、じゃー次の授業で学生にそれを説明してくれ、15分くらいでいいから、と言うことになった。まさかカレッジで哲学の授業をするとは思っていなかったが、とにかく嬉しい。だいたいの案はすぐに出来たが、英語で、しかも素人さんに説明するのはそれなりに工夫が必要だ。
 考えて見るに、「弁証法」ほどいい加減に扱われた言葉はない。今になってみると、いかにマルクス主義者がこの言葉を勝手に捏造して使っていたかは目に余るものがある。逆に言うならば、いかに哲学の研究者が彼らの横暴を見てみぬふりをしていたかと言うことになる。このことについては [なぜ、なぜ、おしえて] の「世間についてのなぜ」で触れたが、若干例外はあるものの、日本共産党一つ取っても日本人の知的能力は論争の一つも吹っかけられないほど貧弱だった。そのくせ、かつての左翼に恨みを持っている人間が多いのであるから話がこじれる。泣言を言うなら、理論的に彼らのような愚か者が二度と発生しないように将来への戒めを明かにせよと言いたいところだ。今回の授業ではマルクス主義者は弁証法を知らなかったと言おうと思う。そもそも、「弁証法」として提示されるべき実用的な方法論はいまだ存在していないからである。
 

4月12日(水)
 日本語の授業の乗りがいまいちである。とにかくバラバラで統制がつかない。各自のレベルに差があることと、例の休みで気が抜けたことが理由だろう。こちらも新手の教材を用意しなくてはならない。とにかく、共通した課題が必要である。最後に何とかラップで載せたが、試験前にちょっとした腕試しをしてもらう必要がありそうだ。テストという神経質になるから、授業内課題ということにしておこうか。
 それはともかく、Jhonson さんに話をしたんだが、今週は忙しいので話が動くのは来週からになるということである。Tarpley さんはかなり回復しているようだが、依然病気療養中なので動けない。Tarpley さんのためにも、何とか事がうまく運べばと思っている。
 

4月11日(火)
 4月も半ばになると、こちらも少し慌しくなる。そろそろ学年末だからである。私自身も来年の話をしたいところだが、責任者の Jhonson さんがいないので話は明日に持ち越しになる。最近、少し寒いせいか体の調子がいまいちである。来年のこともあるし、なかなか気分的に落ちつかない。勉強も多少停滞気味ではある。ただ、掲示板での書き込みだけは引くに引けない状態になってきた。これもかえって気分転換になって良いであろう。
 
 

[ことばのこと]