文化と文明とについて(12)


 ー芥種のたとえー

「また言い給ふ『われら神の国を何になずらへ、如何なる譬えをもて示さん。一 粒の芥種 のごとし、地に播く時は、世にある萬の種よりも小けれど、既に播き て生え出づれ ば、萬の野菜よりは大く、かつ大なる枝を出して、空の鳥その蔭 に棲み得るほどになるなり』(新約聖書・マルコ伝 4:30ー32)」


 数年前、アルビン・トフラーの「パワー・シフト」という本が話題になったこ とがあ る。私はこの本をまだ読んでいないが、確か聞くところによると、力に は暴力・金力・知力の3つがあり、未来では暴力や金力よりも知力が重視される という内容の本らしい。私もそれなりにこの3つの力について考えてみた。ま ず、暴力、つまり軍事力だが、これは下の力である。何故なら、この力は使えば 使うほど失われ、しかもそのあとに何ら有益なも のを残さないからだ。これに たいして、金力、つまり経済力は中の力である。何故な ら、これは浪費してし まえばそれまでだが、うまく投資をすれば、より以上の力を得ることができるか らだ。だが、最上の力は知力、つまり情報力である。この力には他の2つの力と は決定的に異なる特性を持っている。それは前の2つの力はエネルギーの保存則 に制約されているのにたいし、情報力はそれに制約されていないということであ る。確かに経済力は投資によって再生産されるのであるが、原理的により大きな 効果を得るためにはより大きな力を必要とする。ここでエネルギーの保存則とは 「無い袖は振れぬ」の法則と言換えてもいいだろう。つまり、エネルギーの保存 則に縛られないというのは、情報は広く知られてもそれ自身は減るものではない という意味である。情報は知られることによってその力を発揮する。マスコミに せよ出版にせよ情報は人の知るところになればなるほどその力を大きくするが、 その情報そのものは減ることはない。これは一方で著作権の問題を引き起こす が、情報の特性として明記されるべきだろう。

 実は、知力は他の2つの力と一緒に並べられているが、決してこれらと並立し 対立するものではなく、それらとともに語られるべきものである。軍事力を用い るときに良き軍師が求められるように、また経済力を投資する際に優れたアドバ イザーが必要なように、情 報力は常に他の2つの力とともにある。これは情報 が文化に属するものであるのにたい し、他の2つが文明に属するものであるこ とからの当然の帰結である。文化と文明とが相即するように、情報力と軍事・経 済力も相即するのである。

 冒頭の「芥種のたとえ」はこの情報の持つ力を端的に示している。一粒の芥種 はたとえ小さくとも、それを受け入れる大地があるならば、自らを増殖させ、大 きな木へと成長する。これを自然科学の立場から表現するならば、芥種が内蔵す る遺伝的情報構造が自らを コピーして増殖し、大きな木を形成するということ になるだろう。この話は芥種を以て 神の教えの広がりを表現したものだが、福 音書のなかには実に情報としての教えの力について説いている箇所が多い。「種 まきのたとえ(マタイ:13.1ー9,マルコ:4.1ー9,ルカ:8.4ー8) 」にせよ、また少数のパンと魚 で「五千人を養う」話 (マタイ:14.13ー21,マルコ:6.30ー44,ルカ:9.10ー17,ヨハネ:6.1ー14) に してもそうである。ここでは情報は「教え」として捉えられており、その広がり は「教えの広がり」として語られている。

 普通、日本では情報化社会というとコンピューターや人工衛星などのハイテク 機器が連想される。しかし、情報の真の重要性は多くの人々がそれによって共通 の文化の基盤を共有し、人々のコミュニケーションに不可欠な信頼関係の絆を確 保するところにある。福音書の教えはイエスによって発せられたが、イスラム教 をも含めたその後の一神教の基盤となった。忙しい日本人にとっては情報とは新 鮮さが何よりであり、テレビのワイドショーなど特にそうであるが、人の知らな いことをより早く知ることが求められている。だが、情報にあって重要なことは 聖書や仏典などのように古典として定着し、人々の生きる糧になってきたという ことである。これはこれらが単に個人の人生において救いとなってきたことを意 味するだけではない。それは多くの人々が古典を学び、そのことを通して共通の 物語(神話)を共有することによって、より広いコミュニケーションの絆を獲得 してきたことを意味するのである。

 文化は常に普遍性を持っている。それが、一見、日本特有、西洋独自のものに 思われても、そのなかには人々の心に共に響くものがある。これは宗教を見るま でもなく、音楽や絵画などの文化を見ても分かるだろう。それに対して、文明は 特殊的である。例えば、かつて海外で注目された日本的経営にしても、そのまま では外国に移植できないことが判明しつつある。経済大国日本の弱点はその文化 の特殊性にあると言われるが、それは文明の特殊性というべきなのであり、それ が問題視されるのはむしろそこに文化が欠如しているからである。このことをよ く示しているのが日本のアニメーションだ。日本人の生んだ日本のアニメは、そ の特殊性にもかかわらず、いま世界中に受け入れられている。かつての若者が外 国人とビートルズの話ができたように、今の子供たちは彼らとドラゴンボールに ついて語ることができるのだ。

 だがアニメについて言うならば、そこには悲しい現実がある。ここ十数年日本 のアニメーション製作の現場は経済的に苦しい状況にあり、個々の人々の献身的 な努力によってようやく維持されている状態なのだ。にもかかわらず、かつてバ ブル絶頂の頃、日本の経済人の多くは文化の振興と称して名画を買い漁り、メセ ナと呼ばれる企業名付きの文化事業を催していた。思うに、どうしてあの時、そ れだけの金を人の育成に回さなかったのだろう? 名画を買うだけの金を貯金し て基金を作れば、アニメ製作の現場も相当に変わったと思う。実は、大分には芸 術文化振興基金というのがあって、県内の文化団体が金を出しあって基金を作 り、その利息で文化事業を行なっているのだが、地味ながら今日まで着実な成果 を上げている。このことを考えれば、日本の繁栄を築いてきた人々には何が文化 なのか全く理解していないと言わざるをえない。

 今まで文化は冬の時代にあった。この間、文化は種のように固い殻の内に身を 隠してき たが、決してその命を絶やすことはなかった。確かに、今の文化には 現実味が欠けてい る 。アニメにしてもコンピューター・ゲームにしてもそれら は未だ想像の世界の殻の中 にあって、現実世界そのものを打ち震わすリアリテ ィを持っていない。しかし、その一方で、これらの文化は想像力の夢の世界から 現実の世界へ近付いているように私には思われる。情報は種になっても滅びな い。それを生かし広めようとする人間がいるならば、それは必ず現実を変えてい く。文明過剰の現代にあって日本人は自らに希望を与える物語(神話)を失って しまったが、子供たちは想像力の殻のなかでその物語を取り戻しつつある。いず れはこれらの文化とかつての日本人の文化的苦悩とが邂逅し、50年にわたる文 化の空白が埋められるであろう。私はそう信じている。

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