バビロンとローマ





 ここに展示している「バビロンとローマ」は私が県の同和教育室に勤務していた頃、「おおいた部落解放史 第13号」に載せてもらったものです。押井守さんの名前は一回も出さずに押井さんの作品について論じたものとなっています。書いたのは1992年頃で、ここで言及されているパトレイバーの映画は第一作目の方です。



 

   序

エホバくだりてかの人々の建つる町と塔を観たまへり・・・
いざ我らくだり、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに言語を通ずることを得ざらしめん・・・
ゆえにその名はバベルと呼ばれる・・・  [旧約聖書:創世記・第一一章]

 私がここで冒頭に聖書の文句を引用するのは、そこに伝えられている言語の混乱、すなわち人間どうしのコミュニケーションの危機がすべての差別の根源にあるものであり、かつそれが我々の文明に常につきまとう試練であると考えるからである。あらゆる歴史はその内に共通のあり方を持っている。本来、地方史を主題とするこの「おおいた部落解放史」に敢えてバビロンとローマについて述べることをお許し願いたい。
 
 

  1.バビロンと東京

 私が冒頭の聖書の文句に注目し、人類の古代の歴史に関心を抱くようになったきっかけは、「機動警察パトレイバー(劇場版)」という映画を見てからのことである。実は、この文句もこの映画の中で用いられていたものであり、それ故、正確には聖書からの引用と言うよりも、この映画からの引用である。*   この中で近未来の東京の姿が「永遠の都バビロン、コスモポリス東京」として描き出されていた。私が気になったのは、この東京という町が「コスモポリス」であるにもかかわらず、「バビロン」と呼ばれても「ローマ」と呼ばれていなかったことであった。「バビロン」と「ローマ」とは共に繁栄を極めた文明の中心地であったが、その故に没落し今日では歴史と伝説の中に生きている。しかし、この二つの都市、二つの文明にはいくつかの決定的な違いがある。まず、ローマは今日においても世界有数の都市のひとつであり、その内に多くの人々が住んでいるが、バビロンの方はすでに遺跡を荒地にとどめるだけである。また、ローマ皇帝を意味する「カエサル」の名がかつてのドイツ皇帝を意味する「カイザー」やロシア皇帝を意味する「ツアー」の名に受け継がれていることからも理解されるように、「ローマ」の名はいまだに憧れと共に語られるが、「バビロン」の名はむしろ呪いの意味を含んでいる。そもそも、この「バビロン」の名は聖書において、先に引用したバベルの塔の伝説のように、繁栄にともなう堕落と退廃、そして没落の象徴であったのである。

 何故バビロンにはこのような否定的なイメージがつきまとうのか? 何故バビロンの栄華はあのバベルの塔のように神の怒りと人々の混乱のうちに破壊されねばならなかったのか? このことを理解するためには、バベルの塔の伝説の背景を考えておく必要がある。このバベルの塔は、紀元前6世紀頃の新バビロニア時代に建てられた高塔神殿であると言われ、その底辺の一辺は91.5m,全高98.5mと記されている。これは当時としては並みはずれて巨大な建造物であり、このような建造物を造るためには、莫大な富が必要であるから、当時のバビロンの交易が相当に盛んであったと見なくてはならない。また、軍事的にも強大であり、国内の防衛はもとよりのこと、戦争に破れた多くの異民族を奴隷としていたと考えられる。いずれにせよ、バビロンは当時においてまれにみる国際国家なのであり、その塔はその富の豊かさと軍事力の強大さの賜物であったと見ることができるだろう。それ故、その塔にまつわる言語の乱れと都市の破壊はその繁栄の反動と解釈することができるのであり、具体的に言うならば、その塔の建設に従事していた多くの民族からなる奴隷の反乱が言語の乱れを引き起こし、後のバビロニアの没落のイメージと重複し、このような伝説を生んだのではないかと私は考えている。

 実は、この新バビロニア時代、聖書を記したユダヤ民族はバビロン捕囚の危機にあり、民族そのものの存亡が危ぶまれるほどの辛酸をなめていた。捕囚とは、古代において敗戦国の兵士及び住民が戦勝国により捕虜として連れ去られることであり、当時のユダヤ民族の支配階級はバビロニアに連れ去られ、そこで苦しい生活を強いられていた。これは一種の民族絶滅の方法であり、その民族の文化を保持し、国を支える中軸となる人々を他の人々から分離することによって、その民族そのものを消滅させようとする試みである。このように当時においては民族どうしの対立は、相手の民族の消滅を目的とするものであり、この王国の支配も常に力による他者の抑圧の上に成り立っていたと言えるわけである。しかし、栄華を誇ったこの新バビロニアも、前539年、人民に対する寛大さを最大の武器としたペルシャ王キルスが、歓呼する民衆によってバビロンに迎え入れられるに至って、歴史の舞台から消え去り、同時にユダヤ人たちはこの新たな王によって祖国への帰国を許されることとなる。

 これに対してローマの方は、その軍事力もさることながら、その巧妙とも言える政治的才能によって帝国を築き上げ、維持していた。バビロニアがあくまで自国の民のみを中心としていたのに対し、ローマ人は自国に友好的な異民族の支配階層をまず味方にし、自らの体制に組み入れることによってその勢力を伸張していったのである。この点、ローマ人と呼ばれた正規のローマ市民の範囲が時代を経るに従って拡大していったことは注目に値する。古代におけるローマ市民とは、ローマ社会において政治的に市民権を得た人々を指すのであり、ある特定の民族に対する名称ではない。このことはローマ皇帝であったクラウディウスの次のような言葉に端的に示されている。

予の先祖の中でも、最も遠い始祖クラウススは、サビニ族* の出身である。彼はしかし、ローマ市民権を与えられると同時に、ローマ貴族の階級に列せられた。この先祖の例に励まされて、予はこれと同じような方針を、国家の行政面に応用すべきだと考えた。それはつまり、どこからでも、優れたものであれば、みんなこの首都に移植するということである。(タキトゥス「年代記」第一一巻二四章)

もちろん、このことはローマが異民族に対して常に寛容であったことを意味するものでもないし、ましてや彼らの真の独立を認めていたことを意味するものでもない。ローマはあくまでその支配を確立するために異民族に対して寛容であったにすぎないのであり、ローマの支配に抵抗するものは、ユダヤにおけるゼロト党* の玉砕に見られるように、徹底的に破壊された。にもかかわらず、今日に至るまでローマが政治的にも評価され、憧れの的となり得るのは、その支配が平和のうちに長期間維持され、ローマ文字やローマ法、そして、キリスト教という文化を現在に至るまで残しているからである。

 このように見ていくと、どうして東京という都市がバビロンと呼ばれても、ローマと呼ばれないかという理由も理解されるのではないかと思う。ローマの名に値するのはむしろアメリカのニューヨークの方であって、東京ではない。というのも、ニューヨークはそのうちに多くの問題を抱えつつも、民族的にも宗教的にも異なった多くの人々を受け入れているのに対し、東京はむしろこのような人々の多様性を拒否しているからである。このことは、最近の外国人労働者の問題もさることながら、過去の関東大震災における朝鮮人虐殺に最もよく示されている。今日に至るまで日本人にとって、言葉も通じず、習慣も異なる外国人は、一方において便利な労働力であるが、他方において得体の知れぬ侵入者のままなのである。
 
 

  2.モノとしての他者

 いかにして人間は自分以外の人間を、自分と同じ感情と心を持った人間と見なすことができるのか? 自分以外のすべての他者が本当は、それ自体、感情や心を持たない単なる夢の産物か、機械人形ではないのか? もし本気でこのような思いに悩むならば、その人は普通少なくとも健全な精神状態にあるとは見なされない。しかし、実際のところ、他者を精巧な機械人形と考えることは困難であるとしても、今生活している世界そのものを含めて、この世のすべてが夢の産物でないということを論理的に証明することはできないであろう。それ故に、普通、自分が自分以外の人間に自分と同じように感情や心があり、単なるモノではないと確信を持っていることにはそれなりに理由があると考えなくてはならない。

 これはフォークランド紛争に従軍したある元イギリス兵の話である。彼が戦場で重傷を負ったアルゼンチンの兵士に遭遇し、死ぬ間際に英語で助けを求められた。彼はその敵の兵士をどうすることもできなかったが、その最期に英語で話しかけられたことがショックであったと言う。「できれば英語を話してほしくなかった」という言葉がこの元イギリス兵の言葉として私の記憶に残っているが、確かにこれは辛いことだと私も思う。なぜなら、戦場と言う異常な状況の中で、人は敵兵を人間ではないと思わねば生きていけないが、本来その母国語を異にする敵兵が、その最期の時に相手の母国語で自らの苦しみを訴えるならば、いかに敵とはいえ、その人間を人間であると感じざるを得ないからだ。

 人間はコミュニケーションを通じて他者を人間として感じ取り、そしてその人が自分と同じように感情や心を持っていると認めることができる。否、このコミュニケーションそのものが人間の感情や心を成り立たしめているものなのである。それ故、人は同じ人間であっても、コミュニケーションなしに他者を人間として感じ取ることは容易にはできない。たとえ、その姿かたちを見て、人間であることを頭では理解できても、コミュニケーションを交わすことができなければ、その人は私にとっていまだ他者としてのモノのままであろう。人間は社会的動物であるとよくいわれるが、そうであり得るのも、人間どうしの間にコミュニケーションが可能だからであり、逆にいうならば、人間が社会的であり得るためには言葉や習慣、そしてものの考え方や宗教などのコミュニケーションの共通の基盤がある限りにおいてなのである。実は、ここに古代のバビロンとローマ、そして現代の日本が直面している歴史的試練の本質がある。というのも、人間はある特定の社会の中で、このようなコミュニケーションの基盤を習得するが、文明社会の活動範囲はこの領域をはるかに越えて広がっていくからである。バビロンもローマも、そして今の東京も、この意味で、人々が自分の生まれ育った社会を越えて通用するコミュニケーションのあり方を獲得しなくてはならない点では共通している。

本来、自らのコミュニケーションの領域外に住む他者は、同じ人間であっても、人間とは見なされない。それは、自分たちと同じ能力を持つ得体の知れないモノに過ぎない。それ故、古代にあって彼らはまず奴隷という便利な道具と見なされた。軍事力によって征服された多くの人々は、このようにまず奴隷として文明社会に引き込まれたのであり、このことは彼らがモノとして市場で商われていたことからも推察される。しかし、このような他者は、自分たちと同じ人間としての能力を持つ以上、より以上に文明社会にとって脅威なのであって、事実、文明のもたらす豊かさはこれらの他者によって常に狙われていたといっても過言ではない。文明社会に対して蛮族と呼ばれていた人々も、いずれは文明の果実を身につけ、従来の文明人を脅かす存在となるのである。従って、文明の発展は次第にそれぞれ異なったコミュニケーションの領域を形づくる民族どうしの対立を生みだし、文明全体としては広い領域におけるコミュニケーションの危機、つまりあの聖書の言葉に示されていた言語の混乱がもたらされるのである。この危機に対しては、二つの解決法が考えられるであろう。一つは、自らのコミュニケーションの領域を拡大することなしに、異民族を屈服させ力で押え込むことによって、この危機を乗り越えることであり、まさにバビロンによる異民族の捕囚はこのやり方の典型である。もう一つは、ローマのように自らのコミュニケーションの領域を他者にまで拡大することによって、自分たちにとって友好的な異民族を自らのうちに取り込むことにより、文明社会の維持を図るものである。歴史を見れば、前者よりも後者の方がはるかに有益であることが見て取れるであろう。

 いずれにしても、人はモノと見なされている限り、そこにコミュニケーションは成り立たず、いずれは破壊と混乱のなかに文明は消えていく。この意味で、先に掲げたパトレイバーの映画は極めて暗示的であった。というのも、この中では、人間の代わりに人の形をしたロボットがコンピュターウイルスによって暴走を始めるのであるが、この「レイバー(LABOR)」 とはそもそも労働者を意味する言葉であり、人の姿に似せて作られているが、それは人間以上の仕事をするモノ、機械に過ぎないからである。
 
 

  3.文明と世界宗教

 このようにローマはバビロンに比べてコミュニケーションの危機という文明に伴う試練にうまく対処していったということができるであろう。しかし、現実にはローマもバビロン同様、文明としては滅んだことに変わりない。確かに、ローマは政治的にはバビロンよりもはるかにうまくこの危機に対処したが、コミュニケーションの問題が、本来、個々の人間の生活の問題である以上、より深い文化的問題を含んでいることを考えなくてはならない。帝国としてのローマの成功はローマに多大な富と平和をもたらしたが、同時に頽廃という社会的堕落をもたらした。先にローマ皇帝クラウディウスの言葉
を引用したが、彼はその名演説にもかかわらず、妻のアグリッピナに毒殺された哀れな皇帝として知られ、またこのアグリッピナ自身、実の子であるネロに暗殺されることとなる。このような宮廷の血なまぐさい話はローマでもバビロンでも共通しているものかもしれないが、殊にロー マにあってはその頽廃が上層の一般市民にまで広範囲に及んでいた点において注目され ね ばならない。このような社会で人々は、一方では繁栄のもたらす豊かさを盲目的に追 い求 めつつも、他方では他人の裏切りに怯えなくてはならなかった。すなわち、人々は 繁栄の中で人間どうしの信頼関係というコミュニケーションの最も大切な基盤を失いかけていたのである。このような社会の中で、キケロはその著「友愛について」の中で友愛(amicitia)の大切さを訴える。しかし、「友愛は、血縁関係と異なり、好意なくしては成り立たない点においてそれに勝る(?,19)」とか「友愛にあってはいかなる嘘、偽りも存在せず、そこにあるものはすべて真実で自発的なものである(?,26)」などの友愛をたたえる文句は、逆にいかに当時のローマ上層階級において人間関係が崩壊していたかを物語るものである。彼が希望を託す「友愛」も、それが特定の人間の間の信頼関係に過ぎない以上、常に裏切りの危険をはらんでいたのであり、友愛を賛美する彼の主張にもわらず、不安定で、頼りにならないものであったのである。

 当時のローマの社会は、帝国の伸張によるコミュニケーションの領域の拡大によって、従来の血縁関係や地域のコミュニティーがそのコミュニケーションの基盤としての役割を背負いきれなくなっていた。それ故、ローマの人々は豊かさを謳歌しつつも、人間不信に悩まねばならなかったのである。こんな中で急速に広がっていったのがキリスト教の信仰であった。何故ローマ世界にキリスト教が受け入れられ、そしてそれが今日まで世界宗教のひとつとして生き続けているのかについてはいろいろな理由があるであろう。しかし、最も大きな理由はキリスト教をはじめとした世界宗教が、あらゆる人々に差別なくコミュニケーションを保証する基盤を提供したところにあると私は考えている。特に、イエスにおける隣人愛の理想にはそれが典型的に示されている。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れていって介抱した。・・・さて、あなたはこの3人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。[ルカ:10.30−36]

ここにおいて、祭司もレビ人もユダヤ社会の指導者階級に属する人であるのに対し、サマリア人とはユダヤ人によって最も差別されていた人々である。それ故、この話はキリスト教の隣人愛が、地縁や血縁のような、生まれながらに見知っている人々よりなるコミュニケーションを領域を越えて及ぶ遠人愛であることを示している。キリスト教は天上にいる神の愛を通じて、地上の人々すべてが愛し合うべきであると説くことにより、ローマやバビロンなどの個々の文明を越えた普遍的なコミュニケーションの基盤を提供することができたのである。

 実は、このコミュニケーションの領域の拡大の過程は、一面において、人間の差別を克服していく歴史でもある。何故なら、この過程の中で、それまでモノと見なされ差別の対象とされてきた他者が、新しく広がったコミュニケーションの領域へ迎え入れられることになるからである。この意味で今世紀の歴史学者トインビーの提示した、差別の四つのタイプは極めて重要な意義を持っているといわねばならない。彼は差別に対して、被差別者を異教徒とするもの、野蛮人とするもの、原住民とするもの、劣等人種とするものとの四つの型に分類し、より後者をより前者よりも悪質なものと考えた。というのも、異教徒に対する宗教的差別は改宗によって、野蛮人に対するものも文明化により取り除くことができるからであり、また原住民に対する差別は、被差別者を奴隷と見なす限りにおいて前者の二つよりも悪質だが、その人の社会に対する貢献によって、その社会的・経済的地位が向上し得る点でまだ救いがあるからである。この中で最も問題なのは、最後の被差別者を劣等人種と見なすものであり、ここには彼らの救いの可能性が完全に拒絶されている。私は、これらの差別のタイプをコミュニケーションの領域拡大の歴史の各段階に対応するものと考え、この段階が進むにつれて、差別の原因と見なされているものが、その人の「生まれ」からその人の「属する社会」、そして最終的にその人自身の「個人的意思」に絞られていくことに注目する。これは、そもそも差別というものが、他者に対するコミュニケーションの拒絶であったからであり、人々が自らの「生まれ」によるコミュニケーションの領域を広げていくことによって、一方において差別の基準も緩やかになっていった
と見ることができるからである。*

 ところで、翻って今の日本の差別の現状を見るとどうだろうか? 日本人はその歴史において本格的な他者の到来を経験してはいない。にもかかわらず、部落差別をはじめとした差別が厳然として存在し、しかもその差別のタイプは本質的に先の劣等人種に対する「生まれ」による差別の性格を強く持っている。このことは、近い将来、日本が重大なコミュニケーションの危機に瀕する可能性があることを示している。
 
 
 

  4.国際化の問題とコミュニケーションの危機

 20世紀の経済大国日本において、コミュニケーションの危機は国際化の問題として語られている。しかし、「国際化」という言葉は決してこの危機を捉えていないし、そもそ もこの言葉自体何を意味しているのかはっきりしない。このことは国際化を意味する「 internationalization」という言葉が海外ではほとんど用いられないことによく示されている。少し前まで、この国際化という言葉には、経済発展に伴う、未来に対する楽観的な感情が込められていたように思われる。だが、すでに外国人労働者の問題に端的に現れているように、その言葉の否定的な面が目につくようになった。今、国際化といえば「国際貢献」という言葉によく表れているように、日本が経済的繁栄を維持するためのコストなのであり、その限りで現代日本の歴史的課題とも見ることができるのである。

 しかし、ここには重大な視点が欠けている。それは、この国際化の問題が社会の問題であって、社会の繁栄のために、つまり、日本人が今得ている豊かさを維持、拡大するために国際化、もしくは国際貢献が求められているからである。それ故、今の日本のコミュニケーションの危機は政治や経済のレベルでしか捉えられておらず、個々の人間の生き方そのものの変更、すなわち、日本人であることそれ自体に変更を迫るものだとは見られていない。このことを考えると、今日本人の望んでいるのはローマ的な国際化であって、文明の存続は意識されても、文化の変革の必要は意識されていない。一般的に、日本では宗教やそれにかかわる思想・哲学についてはあまり関心が高くないように思われる。特に、キリスト教やイスラム教などの一神教に対しては単に関心が低いだけでなく、一種のドグマのように見られ、あまりよい印象を持たれていない。確かに、中東の国々や旧ユーゴスラビアに見られる宗教の絡んだ戦争は、一神教のかたくなな側面を示しており、そのために日本人の中には自国の「和」の文化をこれに優越するものと考える傾向さえ見られる。しかし、本来、何故一神教をはじめとした世界宗教が登場し、今日まで世界の多くの人々を引きつけているかを考えれば、安易にこのような主張をすべきでないと私は思う。そもそも、日本人がその歴史において、本格的に他者の到来を経験していない以上、むしろこのような世界宗教の歴史的意味を考えることなしには、国際化の真の意味は理解されないだろう。

 ローマの人々も、バビロンの人々もその繁栄の中で自分たちの文明は永遠だと考えていたに違いない。しかし、あらゆる繁栄は「世は無常」の言葉にあるように、長い歴史の中では泡末のようなものである。それ故、今の日本人は二つの現実感のはざまにある。一つは、今に迫られ、今の繁栄のために努力しなくてはならない社会的な現実感であり、もう一つは、無常の歴史の中で今の繁栄もはかないものだと感じる個人的な現実感である。一般的に「現実」といえば前者の現実を指し、後者の方は「夢」と見られるが、この2つは時々反転し、区別がつかなくなることがある。

オレたちがこうして話している場所だって、ちょっと前までは海だったんだぜ。それが数年後には、目の前のこの海に巨大な町が生まれる。でも、それだって、あっという間に一文の値打ちもない過去になるに決まってるんだ。タチの悪い冗談につきあっているようなもんさ。

これはあのパトレイバーの映画のセリフの一部だが、この夢と現実の間にかいま見える現実に対する根源的な不安こそ、コミュニケーションの危機の本質を示すものである。

 歴史的に観るならば、繁栄を維持しようとした古代人の過度な努力が彼らの没落を招いたのであり、彼らが真に顧みるべきであったのはごく身近な自分たち自身の日常であったことに気がつく。しかし、今の日本人は、その繁栄のために国際化という多大なコストを支払っているが、本当に必要なのは、他者を人間として認め合うという人権意識の確立だということにまだ気づいていない。現在の日本のコミュニケーションの危機は、外国人労働者問題はもちろんのこと、部落問題を含めて、性やエイズの差別の問題、また世代間のギャップ、家庭の崩壊などの生活のあらゆる側面に及んでいる。人は常に眼の前にある物質的豊かさを追い求めるが、真に求められるべきは、自らの日常を支える精神的なものの確立であり、それはあらゆる差別の克服によって初めて得られるものなのである。
 
 
 

 

1 「機動警察パトレイバー劇場版」 レイザーディスク B面/00M58S  文庫判 161〜162P

2 ローマの近くアペニン山脈の斜面に住んでいた民族。最も早くからローマと同盟関係を結んでいた。

3 熱心党とも呼ばれ、メシア降臨のためにはユダヤ教の律法を冒すローマ支配と徹底的に戦うべきであるとした。

4 この差別の四つのタイプは、彼の著作「歴史の研究」の中で、征服者による被征服者に対する人間性の否定の四つの形態として述べられている。 中央公論社  世界の名著73「トインビー」 464P以下参照。

5 「機動警察パトレイバー(劇場版)」 レイザーディスク A面/56M55S    文庫判 159P
 

 参考資料

   「機動警察パトレイバー(劇場版)」 ヘッドギア
      レイザーディスク BANDAI 
      文庫判      富士見ファンタジア文庫
   「聖書(新共同訳)」 日本聖書協会
   「タキトゥス 年代記」 岩波文庫
   「永遠のローマ」 弓削 達  講談社学術文庫
   「ローマ人盛衰原因論」 モンテスキュー  岩波文庫
   「バビロン」 J.G.マッキーン 岩永 博 訳  法政大学出版局
   「DE AMICITIA」 CICERO (「友愛について」 キケロ)
   「歴史の研究」 トインビー (中央公論社世界の名著73 トインビー)
 



 
 

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