環境ホルモン汚染と「疎外」の論理


第6回


  終わりに:新しい論理を求めて
 

 今回は環境ホルモン汚染の問題からはじめて、精神汚染の広がりつつある現代 の社会状況について書いてみました。精神汚染について言えば、これは別に現代 になって始まったわけではなく、文明の栄えるところ、社会の発達しているとこ ろではどこでも見られることと言えるでしょう。特に、官僚制度や軍隊のような 上下関係で成り立っている組織では常にこの傾向が見られます。にもかかわら ず、これを「精神汚染」として取り上げたのは、近代における人間の社会の飛躍 的な拡大にともなって、人間社会内部の局所的な問題では済まされなくなってき ているからです。

 最近、地球規模で環境問題が論じられるようになりましたが、その多くは環境 そのものに対するもので、環境汚染を引き起こしている社会に対するものはまだ 少ないようです。しかし、環境汚染の源は人間とそれが生み出した社会なのであ り、人間と社会と自然環境とを別々に論じていてはその解決の糸口は決して見え てきません。例えば、環境ホルモン汚染にしても、それは直接的には人間の作っ た化学物質によって引き起こされたものですが、その背後にはそのような化学物 質を必要なものとしている社会があります。いわば、そこには「人間」「社会」 「自然環境」の間に汚染のループが出来あがっているのです。

 ここで求められるのは、自然の一部として人間やその社会を一つの意味連関の 中で見る新しい論理です。しかしながら、従来の論理は、これに対して人間と自 然との二元性があまりにも強かったように思います。「疎外」の論理は、その意 味で、環境ホルモン汚染のような自然環境の汚染と人間の精神汚染とを同一のレ ベルで説明できるのではないでしょうか。三浦梅園の哲学で言えば「一即一一」 の全体としての「一」の立場を踏まえた論理だというわけです。

 いずれにせよ、今回の私のエッセイがそのような論理構築のための一助になれ ば幸いです。
 

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