経済学についてのなぜ!?

 
 

   ** ザ・近未来シュミレーション **

 200X年、日本の経済学者たちはついにネットワーク社会の助けを借りて究極の経済システムを完成させた。それは失業とその原因となっていた需要の低迷をリンクさせそれを市場システムに組み込んだ新しい経済システムである。それまで日本は需要の低迷や少子化・高齢化に伴う経済成長の低迷に苦しんできた。これに対して政府はさまざまな景気浮揚策を打ってきたが、21世紀にその限界にいたり、同時に多大の財政赤字を背負い込むことになった。これに対して従来の経済政策は全く無力であったが、新たに登場した需要創出プログラムを提唱する一部のエコノミストたちの登場でこれらの問題はすでに過去のものになった感がある。彼らはこれまでの「ケインズ政策」と呼ばれる議論を超えてセイ法則を無制限に適応できる社会を考え出した。その内容はこうである。従来、経済システムは失業の危険がパラメーターとして内在化していなかった。それ故に、現実に失業という恐怖があるにも拘わらず、経済システムは不況に陥り、社会を無用な困難にさらしてきたのである。現在において不況の最大の原因は需要の不足だが、需要が不足するのも、それが消費者の気まぐれに依存してきたからである。現代のような高度経済社会、いわば豊かな社会において、消費者はかつて食料品の不足におけるような切実な動機で消費行動をしているのではない。にもかかわらず、この消費行動が消費者にとっても切実な問題である失業問題の原因であった。今までこの矛盾をいかなる経済学者も等閑に伏してきたが、新たな経済システムを提唱した人々は、この矛盾がコンピューターネットワークの登場によって解消されるべきだと主張したのである。

 3人の子供を持つA氏には失業の心配がほとんどない。というのも、彼は3人の子供を育てることによって社会に貢献していると見なされているからであり、なおかつ多くの家族を抱えることによって需要の創出という大きな社会的貢献をしているからである。彼は週末の多くをリゾートで過ごしている。その多くはバブルの崩壊後、閉鎖の危機にさらされていたものであるが、新たな需要創出プロジェクトによって息を吹き返した。彼に限らず、多くの人々が需要創出のために社会貢献をしている。理由は簡単だ、ネットワークの発達により、個々人の消費状況が明確にされることにより、それがリストラの審査に反映されるようになったからである。「消費せざるもの働くべからず」というのがこのプロジェクトのモットーである。政府はリストラによって解雇された者を審査し、より多く消費した者をその対象から外すように指導している。またA氏のように子供を多く抱える人々は、解雇されないように厳しい管理をしている。リストラされた人々は自分がそれ相当の消費をしていたと審査機関に申告すれば、その解雇が不当であると判定されるようになった。少なくとも、同じ職場の中で仕事の成績が同等にも拘わらず、彼よりも家族が少なく、更には消費の度合いが少ないに人がリストラの対象にされていないなら、その解雇は不当だと判断されるようになったのである。

 結果として、企業側は家族のいない者、消費の度合いが少ない者から解雇するという方針を取り出した。また、個人がどれだけ消費しているかはプライバシーの問題であるにも関わらず、被雇用者も率先して自己の消費を公表することになった。A氏が週末の多くをリゾートで過ごしているのもそのためである。このような政策に対して、かつての社会主義国と同じような管理システムではないかとの批判もある。しかし、これに対して、新たなシステムの提唱者たちはこれは一定のルールに基づいてなされている市場ゲームのひとつであり、決してかつての社会主義計画経済に見られたような管理システムではないと主張する。また、彼らはすでにバブル期に見られたような無謀な投資や開発には十分に規制がなされているとも主張する。「たとえ半ば義務的であったにせよ人間はよりためになるものを消費の対象としますし、ネットワークによるアンケートによって、不要な施設や商品はチェック出来るのですよ」とプログラムの責任者の一人は語っている。

 アメリカが柔軟な雇用システムによってネットワーク社会を迎え入れたのに対して、日本が伝統的な雇用システムを維持するためにそれを利用したのは皮肉なことである。しかし、この政策は一方で若者の企業的独立を促すことにもなった。彼らの多くは無理な消費をしてまでサラリーマンであろうとはしなかったのである。恐らく日本の将来は彼らによって切り開かれるだろう。
 
 

 なぜ今まで経済学者たちは効用の問題に無関心であり続けたのか?

 上のシュミレーションを多くの方は現実離れしていると思うかも知れません。しかし、政府による地域振興券の発行、更には大分県による「WM(ウェディングマーチ)作戦」(県職員をかり出しての船上での集団見合い、当然、今はやってません)を考えると、あながち笑ってばかりもいられません。最近の公共事業の増大による雇用対策も本質的には無理な需要創出と言えるものです。社会的な制約を取り払えば、上のシュミレーションのようなやり方が最も経済学の理にかなった政策です。消費の申告は確かにプライバシーの問題が絡んでくるのですが、それを除いても多くの人はこのシュミレーションに違和感を感じたのではないかと思います。それは「なぜ必要もない消費を敢えてしなければならないのか?」と普通考えるからです。しかし、経済学者にとってこの質問は彼らの守備範囲外にあります。というのも、近代経済学において「必要(経済学の用語では効用)」は市場において所与として与えられるものであって、なぜ「必要」が生じるのか、なぜ人々がそれを「必要」とするのかをその研究の対象とはしていないからです。確かにマルクス経済学においてはこのような問いかけは意味を持ちましたが、ほとんどのマルクス経済学者が失踪した今日にあって、このことを問い直す経済学者はほとんどいないと言ってもいいでしょう。

 経済が人の必要を満たすためのシステムであって、人が経済の要求を満たすための存在ではないのは当たり前のようにも思います。人と経済とを結びつける第一の要因がその必要、「効用」である以上、経済を語る前提として「効用」が「労働」とともに問われるのは当然のことでしょう。しかし、経済学が他の自然科学と同様にその前提であるこれらの概念に無関心であり続けました。これらの解明は哲学者の仕事と言うことになるのでしょうか。ただ、経済学者に対して言えることは、彼らは船が沈んでいくときに、上へ昇る道筋を提示できても、その船から脱出する方法を提示出来ないと言うことです。上のシュミレーショについて言えば、新しいプロジェクトの提唱者たちは社会主義崩壊の本当の理由がそ管理システムの限界にあったのではなく、人々のその必要や願望などによって形成される効用を無視して、物を生産し人々に消費させてきたという無理にあったことに気づいていない点がそれです。こんな不自然な社会システムが長続きするはずもなかったのです。

 社会科学において自らの前提に無関心であることは自らの無責任をさらけ出しているように思います。誰かこのような状況に抗して経済学から哲学へ転向される方がいらっしゃってもいいと思うのですが、そういう方すらいないのはなぜなんでしょう?
 
 

 市場原理そのものはいかにして市場原理によって制御されるのか?
 

 新古典派の経済学者たちは市場原理を重んじ、社会的経済活動は政府による管理ではなく市場における競争にゆだねるべきであると主張していますが、彼らの主張する市場原理そのものはいかにして競争によって制御されるのでしょうか? 新古典派の市場主義者の主張をそのまま押し広げて行けば、競争によって良し悪しの判断がなされるわけですから、市場原理そのものもそれに服するべきでしょう。彼らの多くは冷戦の終結とともに市場経済が計画経済に勝ったことを以って競争による判断がなされたと考えているかもしれません。しかし、現実に市場経済を基本とする自由主義体制が社会主義体制に勝ったのも、自由主義者の多くが社会主義の良いところを学んだからです。競争というのは一回きりのものではありません。むしろ、競い合うライバルどうしが互いに自己を高めることによって市場原理は成り立っているのです。このことは新古典派の経済学者が独占を嫌う点からも理解できるでしょう。

 こうして考えて分かることは、市場原理を基本として人間の経済社会が成り立つとしても、その中での競争のあり方は多様だということです。新古典派の人たちは、まず政府の規制を廃することを主張しますが、すべての規制が悪なのでしょうか? もしそうなら、理想とされる究極の市場社会はルール無用の市場社会ひとつに絞られることになるでしょう。しかし、いくらなんでもこれは無理なので、何らかの形で市場のルールを保証するシステムが必要となります。とするならば、そこに競争の成り立つ多様な市場社会が出現するはずです。

 新古典派の人たちには悪いのですが、彼らは恐らく市場経済が世界に定着すれば用済みになるでしょう。というのも、彼らの役割は市場が経済の基本であることを世の中に納得させることにあるからです。正直のところ、もはや新古典派はその役割を終えたと私は考えています。問題はいかにして多様な市場間の競争を促すかであって、規制緩和の問題も市場社会どうしの競争によって達成されるべきものだと私は見ています。

 この段階において問題となるのは、市場社会を成り立たせている前提となっている社会そのもののあり方です。市場経済の原理は一見、単純に数式によって理解されるようにも思えます。それは重要と供給との関係によって規定されるからです。けれども、現実はそう安直ではありません。すでに私が述べたように、そこには効用の問題が絡むからです。人が何をよしとするかは時とともに変化します。供給側も需要者の側もそれぞれ新しい効用を求めてイノヴェーションを繰り返します。市場とは決まったものをやり取りする簡単なゲームではないのです。また、「文化と文明とについて(8)」でも述べたように、社会的組織体は常に無効需要を産出する傾向があります。新古典派の人たちは政府の規制を攻撃することによってこの無効需要の産出を防げると考えているかもしれませんが、社会的組織は政府に限ったものではありません。巨大な多国籍企業は、むしろ政府より強力な組織とも言えるでしょう。いずれにせよ、産業社会がある程度大きな社会的組織を必要としている以上、新古典派の経済学ではこの問題は解決不能です。

 私が多様な市場経済間の競争を必要だと考えるのは、このような理由からです。この段階においては今までの経済学よりも、人間社会そのものを対象とする社会学の登場が望まれるでしょう。いずれにしても、既存の決められたパラメーターで経済の動向をつかもうとする近代経済学はそれはより広い社会学の中のひとつの技術分野として生き残ることになるのではないかと思います。
 
 

 経済学者たちはなぜ今まで環境問題に無関心だったのか?

 これは小学生の時から持っていた疑問です。最近、環境問題がよく話題になるので人口問題や他の分野において経済学者たちも環境問題に取り組んでいるようですが、まだ多くの経済学者たちにとってこの問題はその視野の外にあるようです。

 私が環境問題と経済についての関連に興味を持ったのは1974年の石油危機の時です。その当時、私はまだ小学6年生だったのですが、石油危機は今までの経済成長のばら色の夢が一気に崩れたので強い印象が残っています。その時すでに、どうして社会の経済活動が自然の上に成り立っているのに、誰もそのことに注意を払わなかったのかが疑問でした。

 小学校の理科の時間に習ったのですが、閉じた温室内での植物の光合成はその中にある二酸化炭素の量に制限されます。植物も呼吸をするのでその分の二酸化炭素は出来るのですが、もとからあった二酸化炭素を光合成に使い尽くすと植物は自分の呼吸で出す二酸化炭素でしか光合成のための二酸化炭素がなくなります。この植物の光合成による酸素の産出量の推移がよくテストに出たりしていたのですが、このことから有限な空間での生物の活動には何らかの制約があることを子供ながら理解することが出来ました。理解できなかったのは、小学生でも分かるこの原理に大学の偉い経済学者の人たちが無関心であったということです(「ローマクラブの報告」については当時は知りませんでした)。

 経済学者(特に新古典派)の経済学者の中には、このことは経済学の守備範囲外だといういとがいたかもしれません。しかし、すでに石油危機によって自然と経済とのかかわりが明らかになっているのに、それに無関心であるのは無責任であるように思えました。せめて専門外であっても、その専門分野を紹介するくらいの配慮が必要だったでしょう。その一方、限られた特定の範囲を考察しただけで「これがベストだ」とあたかもあらゆる条件を考慮した上で結論を出したかのように自説を主張する経済学者を時々見かけます。確かに部分的に見れば彼らの主張は正しいのですが、長い目で見ると人類を危機に落とし入れかねない危険が潜んでいることがよくあります。環境問題との絡みはその最たるものでしょう。

 法学の場合もそうなのですが、経済学もその学問に何が出来て何が出来ないのかということに関する考察を欠いているように思います。ただ、法学の場合、離婚だの遺産相続だの現実の生々しい問題と付き合っていることを考えると、経済学ほど責められないかもしれません。経済学の場合、生の現実とは無関係にモデルづくりに励んでいるだけにより真剣な反省が必要といえるでしょう。カントはそれまでの形而上学を「人間の知的能力には何が許されているのか」という点から反省を加え、新たな哲学のスタートラインを用意しました。これは批判哲学と呼ばれるものですが、この「批判」の精神が今の経済学に最も求められているのかもしれません。昔、マルクスも「経済学批判」という著書を書きましたが、マルクス主義経済学が崩壊した今日、自己に対する批判精神を持った経済学者は少数になった気がします。
 
 

追伸:以上のことを以前から私は経済学の疑問として持っていたのですが、それに答えてくれそうなゲゼル研究会のHPを最近知りました。ゲゼルとはケインズと同時代の経済学者のようですが、地域通貨の導入を試みる人々の間で話題になっています。関心のある方は訪ねて行ってあげてください。三浦梅園関連資料のコーナーもあります。

 今回、ゲゼル研究会の森野栄一さんのご好意で、ゲゼルの書いた「ロビンソンの物語」を臨時に掲載することになりました。ゲゼルの考え方を分かりやすく説明したものですが、同時に経済学の良き入門書になっています。ゲゼル研究会のHPの準備ができれば、そちらの方で公開されることになります。

 シルビオ・ゲゼルの「ロビンソン・クルーソー物語」

 ロビンソン・クルーソー、冷蔵庫を発明する (持続的交換の必要性)、の段

 ロビンソン・クルーソー、銀行家となる (貨幣の制度上の性格における進化)、の段

 ロビンソン・クルーソー、カネを貸す (ドルと銀行貸付の性格)、の段

 ロビンソン・クルーソー、破産する (破産の根拠について)、の段

[おまけ]
 
 
 

[なぜなぜ!?]