文化と文明とについて(8)


 ーゼロ・サム・ゲームー

「それではまず、こういう点について言ってもらうことにしようか。ひとが疥癬 (かいせん)にかかって、掻きたくてたまらず、心ゆくまで掻くことができるの で、掻きながら一 生を送り通すとしたら、それでその人は幸福な生活を送るこ とができるのだろう か、どうだね。 (岩波文庫「ゴルギアス」150P)」


 平成6年、1994年、すでに日本はバブル期と呼ばれた好景気の時代から数 年たっている。現在は不景気と呼ばれているが、この不景気の底がどこにあるの か未だはっきりし ない。今の不景気の原因の核には銀行の不良債券があると言 われているが、もしそうな ら、バブル期に銀行が熱心に仕事をせずに過剰な融 資をしなければ景気の回復はもう少し楽になったかもしれない。銀行に限らな い、証券会社などの金融機関のすべてを含めて考えて、バブル期に無駄な仕事を しなければ、今日の不況はこれ程までにはならなかっただろう。この時期の日本 経済は、人間の身体で例えるならば、アドレナリン(人を興奮させるホルモン) の異常によるものであった。別に経済の実体が大きくなったわけでもないのに、 やたらとブランド物がもてはやされ、その分消費が増える一方で、仕事がとてつ もなく増えていった。とにかく大衆の欲望の増加とともに経済も成長し、その分 仕事が増えたわ けである。当時、バブル景気にうかれていた人々の多くは、自 分の欲望を限りなく高 め、それを満たしていくことに快感を感じていたのであ ろう。恐らくこのような人々はバブルの崩壊した今でも懲りずにバブルの復活を 望んでいるに違いない。彼らに対してソクラテスが放った言葉が冒頭の文句であ る。一見、突拍子もないたとえだが、すでにこれによって彼らの過ちは的確に指 摘されている。

 欲望を満たすため欲望を再生産するバブルというこの珍妙な経済状況を解く鍵 は「投資」と「投機」との言葉の違いにある。バブル期はまさに「投機」の時代 であった。多くの人々が株式市場での株の値上がりを期待して株に手を出したの である。だが、これはもともと株式市場を生み出した「投資」とは異なってい た。株式とはそもそも新しい事業を起こしたい企業家が資金を集めるための手段 である。株を買う本来の意味での「投資家」はその企業のやろうとする新しい事 業の可能性に期待をかけて株を買うのであり、その事業の成功の見返りとして株 主はその企業から配当を受けるのである。ところが、「投機」はそうではない。 「投機」とはその株の市場価格が将来上昇することを期待して株を買うことであ り、直接にその企業の事業の可能性に期待して資金をそれに提供するのではな い。 証券会社はバブル期においてまさにこの「投機」ブームに乗って成長した と言えるだろ う。一方、銀行も将来性のある企業の事業に金を貸して資金を調 達するのが本来の仕事であるのだが、やはりブームに乗って過剰な貸付を行って いた。本来、銀行も証券会社も、「金融」という言葉が示しているように、「金 を融通する」ことによってこの実体経済をよりよく運営するという身体でいえば ホルモンの役割を果していた。ところが、バブル期においてはこのホルモンと栄 養としての実体経済との関係が逆転し、ホルモンの分泌のためにホルモンが分泌 されるという異常事態に陥ってしまったのである。

 実は、このことは市場経済の原理的な問題を示している。というのも、市場に おいては「投資」であれ「投機」であれ、売り手と買い手がそろうならば取り引 きが成り立ってしまうからであり、たとえそれが「投機」のようになんら人々の 利益の増大に関係がなくても市場はそれに関知しないからである。このような 「投機的」な経済活動は一般に「ゼロ・サム・ゲーム」と見ることができるだろ う。「ゼロ・サム・ゲーム」とは、早い話、限られたパイを何人かの人々が、自 分の持ち分を少しでも増やそうと、互いにけんかをしながら奪い合っているよう な状態のことである。現実には、実体としての経済が拡大が頭打ちになっている にもかかわらず、各企業が自らの収益を上げるためにシェアの拡大を競っている 状態と言うことができる。いずれにしても仕事は増える。仕事が増えれば好景気 になり、経済は成長する。その行き着く先がバブルだったと言うわけだが、当然 のことながら、これは長くは続かない。

 市場経済の信奉者の多くは次のような市場の現実を見逃している。それは市場 に参加し 取り引きをする者(主体)の多くが個々の人間ではなく、企業という 名の社会的組織で あるということである。彼らはたいてい市場がうまく機能す れば、需要と供給とのバランスの下に、個々の人間にも富の分配が最適になるよ うに物の価格が決定されると信じている。ところが、実際はそうではない。企業 は自らの利潤追求のためには、実体としての経済の発展のためであろうが、単な るシェアの奪取のためであろうが関係なく市場に参入する。その結果、少しでも 他社に差をつけるためにどうでもいいことに多額の資金を投入することもある。 ちょっと理論的に説明してもイメージがわかないと思うので、極端な例を示して みよう。もう10年ぐらい前になるだろうか、ちょっと変わったビールの販売競 争が行われたことがある。それは一言でいえば、ビールの売上を上げるための珍 妙な容器開発競争だった。ビールを注ぐとピコピコ音を出すものをはじめ、缶ビ ールであるにもかかわらず、上部の蓋が全部取れてグイグイ飲めるもの、そして ついに缶の底にバネがついていて、はじくと泡が出てくるものまで登場した。ド ライビールの登場でこれは完全に今は昔の笑い話になってしまったが、そんな物 を開発し宣伝する金があるのならビールの値段を下げてくれというのがビール党 の本音だろう。ところが、この酒飲みのささやかな願いはなかなか市場経済では 実現しない。それは各々の企業が互いのシェア獲得のためにエネルギーを費やさ ねばならないからである。

 このビールの話は極端であるにしても、このような無駄は市場経済にはつきも のであ る。ほんの少しの性能アップのためにとてつもないコストをかけても、 シェアの拡大につながるなら、それは常に正当化されるのだ。殊に、かつてのよ うに自動車やテレビなどの電化製品のような目玉商品がなく消費の増加が頭打ち になっている今日、このようなゼロ・サム・ゲームはあたり前のこととなってい る。ここで私は市場経済から個人が受ける効用(利益)とそれにかけるコストと の差を「効用のミスマッチ」と呼び、また、このゼロ・サム・ゲームのために生 じる需要を「無効需要」と呼んでいる。かつてケインズが「有効需要」の概念を 提示した頃は「投資」の時代であった。当時は国家が公共事業に資金を出すこと は産業の振興に結びついていたのであり、未だ経済の実体としてのパイは拡大し 続けていたのである。ところが、今はそうではない。消費が頭打ちの現在、いた ずらに今までの経済拡大路線をとることは「効用のミスマッチ」を拡大し、「無 効需要」を増大させるだけだろう。こんなことを続ければ人も自然もいずれはお かしくなってしまう。

 にもかかわらず、未だに経済の良し悪しがその成長率で測られているのは問題 である。 何故なら、経済成長率は、バブル期を見てもわかるように、無効需要 の増大によっても 上昇するからである。今の不景気は無効需要を抑え、効用の ミスマッチを縮小させるためとも考えられるのだが、実はここに前回述べた人口 を無理なく減少させる方法の糸口がある。量的に見れば、無効需要の清算によっ て将来の日本の労働量は確保できる。また、一方、この清算によって日本の経済 規模も名目上は縮小するから、相対的に貿易黒字も減少し、外国の非難を受ける ことなく貿易から得る利益を国民は享受できる。いずれにせよ、人口の減少に合 わせて緩やかに産業構造を変化させ、無効需要を減少させるのは無理なことでは ない。このように考えるならば、最近よく話題になる「安定成長」の時代も迎え られるように思われるかもしれない。

 だが、私には他に不安なことがある。これはやはり日本の未来に関するものな のだが、次回はこのことについて再び生物学の視点から考察することにしたい。

[←戻る] [次へ→]

[人間界のこと]