文化と文明とについて(9)


 ー過剰適応ー

「一般に生物の示す形態的または生理的な性質(すなわち表現型)はそれが持つ 遺伝子の組(詳しくは遺伝子型)だけでは100%は決まらず、環境によっても 影響される。しかも、表現型における融通性の存在が生物にとって重要で、これ によって表現型を変えるだけで適応が行なわれる。もし、獲得形成の遺伝により このような変化が次々に遺伝子型の変化となれば、生物の表現型的な適応性はす べて食いつくされ、存在できなくなる。」 (木村資生 「生物進化を考える」12〜13P )


 人間という動物は寒帯から熱帯まで地球上のあらゆる地域に住んでいる。それ は人間が衣服をその場の気候にあわせて着替えることができるからだ。もし人間 が白熊のように厚い毛皮に覆われていたら暑いところには住めないだろうし、ま た逆に衣服を着ることができないならば、寒いところに住むことはできないだろ う。それ故、人間の生物としての強みはその適応能力の広さにある。生身の人間 が身体的に他の動物に劣るにもかかわらず、地上のあらゆる地域にその生活圏を 広げることができたのは、その知力によって広い適応可能性を獲得したからであ る。これに対して、他の動物は遺伝的に獲得した能力によって自然にうまく適 応しているが、それは常に限られたものであり、鳶の子は鳶としての生き方しか できない し、鷹の子は鷹としてしか生きられない。冒頭に掲げられた文句はこ の生物の適応可能性の広さの重要性を物語っている。実は、人間ほどの適応可能 性を持たないとしても、種として見るならば、他の生物もかなり広い適応可能性 を持っている。ここで「表現型」と呼ばれてい るのは生物の姿そのものであ り、「表現型を変えるだけで適応が行なわれる」というの は、その姿を環境に 合せて変化させることによって適応が行なわれるということである。これは具体 的な例をあげるならば、前々回で紹介した群集相のバッタと孤独相のバッタとの 違いがそれにあたるだろう。前者のバッタは移動に適した姿をしているが、同種 であっても後者のバッタはそうではなかった。この文章は直接的には獲得形成遺 伝を否定するために書かれたものだが、適応可能性の広さが生物にとっていかに 重要であるかを示している。

 普通、我々は適応することは良いことだと思っている。生物の進化とは生物が 生存のためにさまざまな環境に適応した結果であり、よりよく適応した種がより よく進化したと考えられている。しかし、このような常識は必ずしも正しいもの ではない。第一に、単に生存するだけなら細菌やウィルスでもかまわないし、生 命力からいえば何億年も生き続けているゴキブリの方が上である。また、すべて 適応することが良いことだとも限らない。白蟻は見事にその環境に適応した種で あるが、まさにそのために種としての進化の可能性を失ってしまった。つまり、 白蟻は白蟻としてそれに適した環境でしか生きられないのである。実は私はこ の話を書店での立ち読みで知ったのだが、残念ながら、そのときその本を買わな かったの で、今はその書名すら覚えていない。しかし、それ以来、私は「過剰 適応」について考えるようになった。つまり、適応というものは常に良いもので はなく、適応し過ぎることによって、本来あったはずの他への適応可能性を失う ようなことがあるのではないかと考えるようになったわけである。この危険は生 存に不利に進化した例があることを考えると更に深刻になる。オオツノジカとい う鹿の一種はその大きな角のために絶滅し、サーベルタイガーはその牙が長くな り過ぎたために滅びてしまった。恐らくこのようなことになったのも、雄の角や 牙の大きさが雌を引きつけるステイタスシンボルになったために、より大きな角 や牙をもつ雄が選択されたためだと思われる。とするならば、この2つの種はそ の雄がより多くの雌を獲得するように適応したために滅んでしまったことにな る。前に私は個々の人間は自然環境と社会環境との2つの環境に適応しなくては ならないと述べたが、この矛盾の萌芽がすでにこれらの生物にあったといえるだ ろう。

 実は、ここに日本の将来に対する私の不安がある。戦後の日本人はものの見事 に高度経済 成長を達成し、うまく産業社会に適応した。しかし、そのために日 本人は多くの潜在的能 力、すなわち可能性を失ってきた。日本人は確かに決め られたことを決められた通りに遂行することについては他のいかなる民族よりも 上だろう。これは日本製品の故障の少なさや、日本人の仕事の納期や期限の厳守 を見れば分かる。しかし、その一方で日本人には独創的で個性的な創造力に乏し いことも指摘されている。このことはこのような能力を必要とするコンピュター ソフトの基本的な発想はほとんどアメリカなどによっていることからも見て取れ る。そもそも、この国ではすべてが規格的なのだ。日本は、豊かな社会であるに もかかわらず、毎年多くの生徒たちが「不登校」に追い込まれている。これは日 本の教育があまりに規格的であることを物語っている。学校の求める規格に自ら の価値感を合せることのできない子供たちは、結局日本人になれず、登校拒否に 追い込まれてしまうのだ。だが、これは子供たちだけの問題ではない。最近、熟 年夫婦の離婚が問題になっているが、これは逆に社会的な労働にのみ価値を感じ てきた会社人間には退職後の精神的支えが何もないことを示している。かりに彼 らがガンの告知に直面しなくてはならないならばどうだろう。老後は金だけでは 解決しない。

 この50年間、個々の日本人はいかに社会に適応するかに努力してきたといえ る。目的は常に社会によって与えられ、各個人はそれをうまく遂行ことに専心す ればそれで良かったのである。これは内向的人間よりも外向的な人間が重んじら れてきたことを意味する。外向的な人間は集団的で社交的であり、一方、内向的 な人間は孤独的で非社交的であると言われるが、より正確に言うならば、外向的 な人間は自己の外部にある客観的なものに価値の基準を置くが、内向的な人間は 自己の内部の主観的なものに価値の基準を求めると言えるだろう。このことから すれば、明らかに社会にとっては外向的人間の方が都合がよく、内向的人間は無 価値に思われる。だが、実際はそうではない。このことを明らかにするために星 新一さんの小説を引きあいに出してみよう。ある人が子供のときから宇宙飛行士 をめざして努力をしていた。宇宙飛行士になるためには知力・体力ともに秀でて いなくてはならず、まさにエリートでなくてはならなかった。そのため彼はエリ ートとしての道を歩み、ついに宇宙飛行士として宇宙船に乗る栄誉に輝いた。そ んな時、ある学会で宇宙飛行についての発表会がなされていた。よく見るとその 発表者は彼の小学校時代の同級生で、自分が徒競争で一等賞だったときにビリだ った人間だった。彼はそのことを思い出し、その発表の最後だけでも聞いてやろ うと考えた。この発表の最終結論はこうだった。「・・・。というわけで、これ からの宇宙飛行は特別な知力や体力を必要とするものではなくなったわけで す。」

 この2人の人間の能力の違いは外向的人間と内向的人間との能力の違いであ る。外向的な人間はその場に即して現実的に行動する能力にたけている。一方、 内向的な人間はその場の現実そのものを反省し、時としてそれを批判し、根本か ら変えてしまう能力にたけている。歴史にあっては、それを動かしてきたのは外 向的な人間であるが、その流れを変えてきたのは内向的な人間だということにな るだろう。無論、外向的とか内向的とかの性格分類は大まかなものであって、そ れぞれの人間はその両方の性格をそれなりに合せ持っているのであるが、これは 人間の性格のある傾向性をつかんでいる。問題なのは現代の日本において一方が 他方にたいして過度に優遇され、50年もの間、職場や教育を通じて人間の内向 的能力が抑圧され続けたことである。今となっては、個々の人間のなかに内向的 能力が残っているにしても、社会システムそのものがその能力を生かす余地を失 っている。外向的人間が文明を担う人間だとすると、内向的な人間は文化を担う 人間である。文明がいかに発展しても文化を失うとすれば、社会も人間もともに 空洞化し、いずれはその文明も歴史からその名を消すことになるだろう。次回は 再び宗教に話題を移し、それがいかに人間の内向的能力を生かし、文明の空洞化 を防いできたかを見ていくことにしたい。

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