文化と文明とについて(10)


 ー社会性悪説ー

「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず又上は天にある者下は地にある者な らびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず。(旧約聖書・出エ ジプト記 20:4)」


 一般に世界宗教において偶像崇拝は禁じられている。イスラム教やユダヤ教の 偶像崇拝の否定はその典型であるが、キリスト教においても、また本来、仏教に おいても偶像崇拝は許されてはいない。十字架や仏像を拝むような態度をとって いても、それは偶像崇拝であってはならないのである。だが、そもそも偶像とは 何なのであろうか? このことを明らかにしてくれるのが上に引用した聖書の引 用である。これは有名な十戒の中の文句だが、偶像崇拝の2つの特徴が端的に示 されている。まず、「自己のために何の偶像をも彫むべからず」という部分で、 偶像が本来人の作ったものであり、人によって支配され得るものであることが示 されている。考えてみればすぐ分かることだが、人の作ったものを崇拝すること は、結局人自身を崇拝することにほかならない。続いて「上は天にある者下は地 にある者ならびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず」の部分 でいかなる具体的存在物も神として崇拝してはならないことが述べられている。 このような存在物は、いかに偉大であっても、具体的な○○として語り得るもの であり、そうである以上、人によって把握され利用され得る有限なものであっ て、神たり得ないというわけである。いずれにせよ、信仰は人を超えた世界の根 源に対するものであり、それ故にそれは人によって語られるものであってはなら ず、ましてや人によって支配されるものであってはならない。

 普通、我々は「偶像」という言葉で石や木に刻まれた人の像をイメージする。 しかし、このように考えるなら、真に警戒されるべき偶像は人の作った社会であ り、それを利用しようとする人々の観念である。実際には、金や権力などの社会 的な欲望、もしくはその社会を支配しようとして生み出される「○○主義」や 「△△教」、時として神という名の観念が人を惑わしててきた偶像ということに なる。人間が社会的動物である以上、社会的なものの存在は必然なのであり、こ れは完全に否定しようとしても否定し切れるものではない。だが、これが人々の 価値感のすべてを支配し、神として崇拝されるようになると偶像崇拝の危険に陥 ることになる。どんなに良いものもそれが絶対的なものと見なされると有害なの であり、それが良ければ良いほどその弊害も大きくなる。このような危険に対し て宗教は常に警告を発し続けていたのであり、このことは次の聖書の文句にも見 てとれるだろう。

「なんぢら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば、御父を愛する愛そ の衷(うち)になし。おほよそ世にあるもの、即ち肉の慾・眼の慾・所有の誇な どは、御父より出ずるにあらず、世より出ずるなり。(ヨハネ第一の書 2:1 5−16)」

ここでの「世」の否定は仏教における執着の否定とも相通じる所がある。仏教で は「分別されたもの」、すなわち具体的に感覚され語り得るものに執着すること を否定するが、これは偶像崇拝の否定と同一のことを人々に求めている。仏教で は「愛」が執着の典型として否定さるので、キリスト教とは異質のものと見られ がちである。しかし、それは仏教が積極的に信仰の対象として「神」を説かず、 語り得ない何かを語り得ぬ「空」として提示するに過ぎないため「御父を愛する 愛」という形で「愛」が肯定的に語られないからである。

 いずれにしても、この社会に対する否定的態度は世界宗教に共通するものであ り、これは文明の過剰な発展を抑制してきたといえるだろう。だが、このことは 宗教が「非社会的」であっても「反社会的」であることを意味するわけではな い。これは今日までユダヤ教徒やイスラム教徒の人々がその宗教的な律法の中で 社会生活を営んでいることからも理解されるだろう。例えば、イスラム世界では 「ウンマ」と呼ばれる共同体の理想が掲げられ、「シャーリア」という法によっ て社会が治められていた。このシステムの有効性はかつてのオスマン=トルコ帝 国の六百数十年間にもわたる安定した支配の長さにも見てとれる。

 しかしながら、宗教が常に社会に対して順調にその抑制の役割を果たしていた わけではない。文化と文明との相克は歴史においては珍しいことではなく、宗教 的な「聖」と世俗的な「俗」とのバランスは常に不安定なのである。このような 危機の時代に現れたのは「預言者」と呼ばれた人々であった。この「預言者」と は世間でいう「予言者」ではない。この「予 言者」は未来を超能力などによっ て予言する人のことであるが、「預言者」はそうではな い。「預言者」とは、 本来、警告者のことであり、神の道からはずれている人々に対して神の言葉を 「預かり」伝える人々のことである。私はこの預言者達を人間の内向的能力の発 露と考える。内向的な人間は自分の心のうちに世の中全体を映し出し、前回に述 べたように、社会そのものを反省し批判するの能力を持つのだが、それ故に社会 の行き過ぎに対して敏感に反応するのである。預言者といえばユダヤの預言者を 思いつくが、彼らがいなければ、ユダヤ人は今日まで生きのびることはできなか っただろうし、また世界宗教としてのキリスト教やイスラム教もあり得なかった だろう。一神教(イスラム教)の立場からすれば、もうムハンマド(マホメッ ト)以後には預言者はあり得ないということになるが、社会に対する警告者が彼 で終わりになったわけでは決してない。歴史的に言えば、「神の名を以て語る」 最後の警告者が彼であったわけであり、今日では哲学者や宗教家、そして文学者 がその役割を果たしていると言えるだろう。

 このような社会に対する批判の根拠は、文明の生み出す人間社会が人間を道具 として使用し、時としてそれを喰らうという危険性にある。この危険は社会にお いては本質的なもので あり、それ故、今までの世界宗教は「社会性悪説」の立 場を取ってきたということができ る。これに対して、常識的な人々の多くは 「社会性善説」の立場を取ってきた。19世紀以来の民族主義にしても、20世 紀の社会主義にしても、はてまた日本の会社主義にしても社会の本性を善と信じ ることなしには成り立たなかっただろう。確かに社会は人々にとって必要であ る。近代においてそれは生産力を飛躍的に増大させ、人々を物質的に豊かにし た。だが、それが人間の内向的能力によってチェックされ抑制されないならば、 必ず危険な怪物に成長する。環境考古学者の安田喜憲氏は「気候が文明を変え る」という本の中で文明の変遷過程を「文明の発展→人口の増大→森林の破壊→ 土壌の劣化→気候の変化→食糧不足→疫病の蔓延→人口の激減→異民族の移動→ 文明の崩壊」という形でまとめているが、この一連のプロセスの中で人間が見い だしたのが世界宗教だと言えるだろう。

 19世紀から20世紀にかけての人類の歴史は人間がすべてを語り得るものと して支配しようとしたいわゆる文明主義の時代であった。この文明主義の典型は ソビエトなどの社会主義国家のイデオロギーに見られたが、同時に冷戦時代にそ れと対抗していたアメリカ的な考えにもこの傾向が見られる。アメリカにせよソ ビエトにせよ文明主義の誤りは次の一点にある。それは文明の進歩によって本来 文化が担うべき社会の秩序がおのずから形成され、文化の問題が文明の進歩によ って無条件に解決されると考えたことである。次回はこの文明主義の誤りについ て少し詳しく見てみよう。

P.S.「気候が文明を変える」という本は岩波科学ブックスのひとつとして刊 行されています。今までの社会科学は社会という対象についてその内部を分析す ることによってそれを説明しようとしてきました。しかし、この本や以前に参考 にした「動物にとって社会とは何か」などの本は、社会の解明にはその背景とな る自然環境や動物としての人間の解明が不可欠であることを教えてくれます。

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