文化と文明とについて(7)


 ー文明と人口ー

「あまりに多数すぎる者たちが生れる。この余計者たちのために国家は考案され たの だ!
 さあ見よ、国家が、彼ら、あまりに多数すぎる者たちを、みずからのほうへお びき寄せる有り様を! 国家が彼らを呑みこみ、かみくだき、反すうする有り様 を!
(ツァラストラはかく語りき 11:11ー12)」



日本には日本人ならば誰でもが知っているが、誰も語りたがらない一つの弱点 がある。それは日本の国土に比して日本人の人口があまりに多いという事実であ る。最近、不景気になって多くのエコノミストたちが景気の回復についてコメン トしているが、戦後、否、明治の以来この日本の弱点に遡って景気について論じ ているものを見ることはない。日本の貿易黒字が拡大し、そのために円高が進行 して景気回復が危ぶまれているにもかかわらず、誰も日本の貿易黒字の背景に日 本の過剰人口があることを指摘しようとはしないのである。だが、戦後実際に日 本人がこれほどまで勤勉に働き、繁栄をしてきたのは、日本の国土には資源が乏 しく、加工貿易をしなくては生きていけないという意識があったことは間違いな い。日本人は豊かになった今日においてさえこの過剰人口の強迫観念から逃れて いない。むしろ、日本が経済大国になり、国際化の必要が叫ばれるようになっ て、ますます人々はこの観念に悩むようになった。このことは「日本は国際的に 孤立しては生きていけない」という日本人の一般的な考えに端的に現れている。 最近話題になった米の自由化や「あかつき丸」によるプルトニウムの海上輸送、 そしてPKOなどの諸問題も、この日本人の強迫観念なしには理解されないだろ う。

 しかし、本来、この人口の問題は別に日本人に限ったことではない。万物の霊 長たる人間には霊長なるが故にこの人口の問題に悩んできた。というのも、人間 には食糧が許すかぎりその人口が限りなく増加する傾向があるからだ。動物がそ の種を数を調整するには大きく分けて二つの方法がある。一つは、限られた領域 の中では一定の数以上にその個体数を増やさないようにするものだ。水槽の中で 飼育されたゾウリムシは一定のレベルに数が増えると、もはやそれ以上にその数 を増やすことはないのだが、それはゾウリムシ自身の排泄物の増加がその生殖を 抑えるからである。これに対して、もうひとつの方法は新天地を求めて外へ出る 方法である。水槽の中のゾウリムシにはこの方法は取れないが、バッタのように 空を飛ぶ動物にはこれは可能だ。我々がよく目にするトノサマバッタをはじめ多 くの種のバッタは群集させて飼育すると群集相という呼ばれる姿のバッタにな る。この姿のバッタは種としては普通のバッタと同じなのだが、群集の中で育た なかった孤独相のバッタに比べて色が黒く、空を飛ぶのに適した身体を持ってい る。これは群集で育ったバッタが過剰人口を解決するために移住する能力を高め るからにほかならない。イナゴの大群が農作物を襲うという話があるが、これは 大量発生したバッタが群集相の姿で成長し移動するからである。人間の過剰人口 の解決の方法の多くも明らかにこのバッタのやり方に近いといえるだろう。かつ て過剰人口に悩んだ日本人たちは「満州生命線論」を唱えて大陸侵略を行った し、同じく過剰人口を抱えたドイツもナチスの政権下でスラブ植民地化を試み た。このような方法は当然のことながら戦争を引き起こすが、おもしろいことに ここで人間もバッタ同様に変化を被る。というのも、平時ならば善良な農民であ ったろう普通の人間が戦争の場では残忍な人殺しになるからだ。このことは団塊 の世代と呼ばれる戦後生まれの世代にも言える。彼らは私のような昭和30年代 後半生まれの人間に比べてバイタリティがあり、とにかく仕事熱心である。だ が、多くの場合その仕事の善悪を問うことなく猪突猛進するきらいがある。

 人間にとってその人口を調整する方法がバッタと同じであったのは不幸なこと である。しかし、人間にはより以上の不幸がある。それは人間にはこれといった 天敵がいないということだ。自然はたいていそのバランスを崩すほどに増加する ような種に対しては天敵の増加によってそれを抑える。ところが、人間にはこの 天敵が欠けているのである。敢えて言えば、人間の天敵は人間自身だが、このこ とは更なる不幸をもたらす。というのも、人間が人間自身の天敵として人間を殺 すのは民族などの集団どうしの戦争ということになるのだが、戦争に勝つために はその民族などの集団の数を増やす必要があり、そのために各集団は「生めよ、 増やせよ」と人口の増加にはげむからである。

 人類が本格的に人口爆発に直面したのは産業革命以来のことと言ってよいだろ う。確かに農耕の開始とともに人類の数は飛躍的に伸びてはいたのだが、地球全 体の環境を危うくするほどの人口爆発が始まったのは産業革命以降のことであ る。そのような歴史の流れの中で、人々は自らの生存を確保するために国家に期 待を寄せたのであり、その結果として20世紀の悲劇が生まれたのだ。国家など の社会がひとつの実体であり、人間を喰らうものであることについてはすでに前 回において述べたところではあるが、この背景には過剰人口の問題があるのであ り、すでに19世紀の時点でこの危険は、冒頭のニーチェの言葉に見られるよう に、予言されていたことでもある。

 今日、人口爆発の問題はアジアなどの発展途上国の問題として語られることが 多い。これに対して、日本などの先進国ではむしろ出生率の低下が問題となって いる。私の住んで いる大分県などは特にそうなのであるが、過疎に悩む地方で は、何とか若者の定住を図 り、子供の数を増やすことに躍起になっている。し かし、ただ「生めよ、増やせよ」と説くのは自然の摂理に明らかに反している。 私は1.53ショックと呼ばれた出生率の低下の話を聞いた時、人間にもゾウリムシ と同じような人口抑制能力があるものだと感心したものである。だが、その一方 で出生率の低下が問題視されるのはそれなりに理由がある。これはよく言われる ように将来高齢化社会を迎えるからであるが、単にそれだけではない。それは日 本という国が人間の生存に必要な食糧や石油などを海外に依存している以上、そ れら を常に買えるほど豊かでなくてはならず、そのためには今の繁栄を維持す ることが必 要だ からである。しかし、ただそのために人口を増やせというのは 無理がある。何故な ら、それは過剰人口の問題を解決するために更なる過剰人 口を背負い込むことを意味するからで あり、一種の「繁栄中毒症候群」に陥る ことになるからだ。もしこれに陥るなら ば、自然環境そのものが人口の重みに 耐えられなくなるだろう。これはあまり知られてはいないことだが、一人当たり の日本人の平均エネルギー消費量は途上国の人々の10倍であり、自然環境の維 持にとっては、先進国の人口増加の方がはるかに危険なのである。それ故、問題 は日本の繁栄のために日本のために日本の人口を維持もしくは増加させることで はなく、いかに無理なく人口を減少させるかである。現在、豊かな生活をめざし て途上国の多くが人口の増加をバネに経済発展を図っている。しかし、もしこれ らの国々がこのまま人口の増加にまかせて経済発展を図ろうとするならば、その 弊害は甚大なものとなるだろう。もし日本が人口の減少と経済的安定とを両立さ せることができるなら、これらの途上国に対して有効なモデルを提供することに なる。

 だが、そのようなことが実際に可能なのかと問われるかもしれない。確かに勤 労者1人が養う老人の数が2倍になれば、その分その人は働かなくてはならなく なる計算になる。しかし、私は安直にそうは考えない。このことを考えるために は経済の仕組みをもう一度洗い直してみる必要がある。次回は最近の日本の経済 事情を分析しながら、経済の仕組みについて語ることにしてみよう。

P.S.この中で紹介したバッタやゾウリムシの話は「動物にとって社会とは何 か」(講談社学術文庫)によっています。

[←戻る] [次へ→]

[人間界のこと]