文化と文明とについて(6)


 ー九十九匹と一匹の羊ー

「汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九 十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。もし之を見出さば、誠に 汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。(新約聖書・マタイ伝  24:12ー13) 」


 確か日本経済新聞のコラムであったろうか? 最近ローマ史の本を書いている 塩野七生さんが、この羊の話について次のようなことを述べていた。宗教の立場 からすればこの迷える一匹を救うことが重要であるかもしれないが、政治家にと っては残りの九十九匹をいかに導くかが問題である。さすがにマキャベリの研究 家として名高い彼女の言葉だと私は感心した。今まで政府や国家は一人の落ちこ ぼれをも生み出さないことをタテマエとして掲げてきた。しかし、実際には、今 の日本の教育を見てもわかるように、これらの社会組織は多くの落ちこぼれを生 み出してきたのである。皮肉なことに、20世紀の現代社会はあらゆる人間の平 等な幸福を目的としつつも、今まで以上の人々をその犠牲としてきた。このこと を端的に物語るのが今世紀における社会主義諸国家の悲劇である。社会主義の理 想は人間を搾取から解放し、人民に対する平等な福祉を保証することにあった。 しかし、現実にこれらの国々は人間の自由を抑圧し、無理な経済成長を目標に掲 げつつ、多くの戦争を遂行し、餓死者の山を作った。

 人間には群れをなす九十九匹としての立場と迷える一匹の立場とが同時に並存 してい る。どんな人でも他人に取り残され、焦った経験があるはずである。完 全な人間がいないように、誰もが迷える一匹としての不安を心のどこかに持って いる。たとえ、今は良くても、いつ何時、自分が不幸な出来事によって迷い出た 羊のようになるとも限らない。かつては村や家などの共同体がその一匹の立場を 支えていた。ところが、現代においてはこれらの共同体とともにこの支えも失わ れたのである。そのため人々は国家にその共同体の役割を求めるようになった。 当時の社会は生産力の飛躍的増大によって何でも出してくれる魔法の杖のように 見えたし、その中で国家は企業とは異なり、利潤追求をせず、純粋に人々の福祉 を考えてくれる頼もしい共同体のように思えたからだ。今世紀、一方においてナ チ スのような国家社会主義、他方においてソ連共産党による一国社会主義が台 頭したの は、このような人々の国家や政府に対する期待を背景としている。

 この期待は「戦艦ポチョムキン」という映画の次の言葉に見ることができるだ ろう。

皆は一人のために
一人は皆のために
この短い文句の中に、現代社会の中で失われつつあった共同体の理想が端的に述 べられている。この映画はロシア革命の直後、エイゼンシュテイン監督の手によ って生み出された 今世紀最高の名画である。本来この映画は共産党のプロガパ ンダ(宣伝)として制作さ れ、革命が非人間的なロシアの帝政から人民を解放 し、かつての共同体の持っていた人間的な絆を再び取り戻すものであることを物 語るものであった。しかし、現実の社会主義はこの映画に描かれた希望をものの 見事に裏切った。エイゼンシュテインも、スターリン体制下で妻を失い、自身も 粛正の危機に何度となく見舞われている。どうしてこんなことになったのだろう か? それは社会主義者が社会を単に人民を豊かにする道具とみなしていたのに 対して、現実の社会が自ら目的を持って行動する「実体」であったからである。 この目的とは、企業社会なら利潤の追求であり、国家社会なら国家体制の維持と その発展である。

 社会主義の思想は二つの前提の上に成り立っていた。そのひとつは社会のもた らす物質的生産力によって人類全体の幸福が達成できるというものであり、もう ひとつはこの社会は人間の手による人工物であるから、人間の思い通りに改造で きるということである。だが、この二つの前提は共に誤っていた。前者について 言えば、個々の人間が異なっている 以上、「人類全体の幸福」という概念その ものに無理があるからであり、後者について は、すでに前の章で明らかにした ように、社会が言葉の整合性によって維持される以上、それは常に自己のつじつ ま合わせに追われるからである。いずれにしても、社会は決して一人一人の満足 のいくようなサービスを提供することはできない。かっての共同体であったな ら、人々が「皆は一人のために、一人は皆のために」働くことも可能であったろ う。しかし、現代の社会組織は個々の人間の幸福の実現以前に、自らの存続を図 らなくてはならなかったのである。このため社会主義国家では人々の幸福に国家 の政策を合わせるのでなく、国家の政策に画一的に人々の幸福を合わせることが 試みられた。マルクス=レーニン主義による思想教育やそれに反する人々の弾圧 が行われたのは、政治家個人の資質によるよりも、この画一性を必要とする社会 主義の本質によるところが大きい。

 このような社会主義者の誤りは、彼らが社会が迷える一匹の立場をも支えるこ とができると考えたことによっている。しかし、この誤りは彼らだけのものでは ない。企業戦士と呼ばれた日本の中高年のサラリーマンにも言えることである。 最近、不況で彼らの失業や出向の記事が目立つようになった。彼らは一様に「今 まで会社のために尽くしてきたのに・・・」という思いを口にする。このことは 彼らがいかに企業を信用し頼ってきたかを物語る。高度経済成長期において、日 本の企業社会は団塊の世代と呼ばれる人々の労働によって大きくなった。当時、 社会は人を必要としていたのである。だが、今、社会は彼らを必要としなくなっ た。ここにおいて人のために社会があるのではなく、社会のために人があるの だ。実に、ここに現代における社会と人間との不幸な関係がある。かってカント は「実践理性批判」の中で「理性的存在者(=人間)は、決して手段としてのみ 使用されるのではなく、同時にそれ自身目的として使用されねばならない」と述 べたが、現代において人間は常に手段として使用されていたのである。

 このように社会は人間が生み出したものであるが、決して人間の思い通りにな るものではない。むしろ、それは今世紀において、人間を支配し、搾取してきた とさえ言えるのである。次回は、視点を変えて、この社会を自然から生じた自然 物としての側面から解明してみよう。

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