文化と文明とについて(5)


 ー人工物としての社会ー

「善く行くものは轍迹無し。善く言うものは瑕(テ無し。善く数うるものは籌策無 し。善く閉ずるもの関(ニ無くして、而も開く可からず。善く結ぶものは縄約無く して、而も解く可からず。(老子 第27章)」
 

 老子は常に物事を逆説的に明らかにする。「轍迹無し」というのは人の行為は 常に自然を傷つける危険があることを示し、「瑕(テ無し」とは人の言葉は常に他 人を傷つける恐れがあることを意味してる。金銭の収支は電算機(籌策)と事務 職員の苦労によってようやく合致し、秘密にしていたこともいずれは表ざたにな り、どんなにしっかりと守ろうとしたものでもいずれは失われてしまう。この中 で特に「善く数うるものは籌策無し」とういのは特に私の印象に残った。という のも、事務職員である私にとって数字合わせほど苦手なものはない からだ。 我々の自然環境は常に微妙なバランスの上に成り立っている。地球の平均気温が 一、二度下がれば、それは確実に穀物の減収を招き深刻な問題を引き起こす。ま た、太陽光線のちょっとした変化が気候はもちろん、通信を始めさまざまな生物 に影響を及ぼすことも広く知られている。だが、地球の自然は人類の環境破壊に もかかわらず、今のところ自らのバランスを維持している。

 人間は常に二つの環境の間に生きている。一つは上に述べた自然環境、もう一 つは人の作った社会という名の環境である。老子の立場からすれば、これら二つ の環境の相性は決してよいとは言えないだろう。何故なら、人は社会環境に適応 し、それを通して自然から利益を得てきたが、そのために自然環境は破壊され、 逆に自然環境を保持しそれに社会を適応させようとすれば、社会のもたらす豊か さを犠牲にしなくてはならないからである。しかし、これら二つの環境世界は常 に相対立してきたわけではない。我々人間が自然から生まれ出たものである以 上、人間の作った社会も自然の産物であり、その限りにおいて他の自然物と同じ ように自然の調和の枠の中に収まり得るはずだからである。よく自然界のマクロ コスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)との調和した関係が話題になる が、人間社会も大自然というマクロコスモスの中のミクロコスモスと考えるなら ば、そこに調和の可能性はある。だが、実際の人間社会はそのようにおとなしい ものではない。

 スペインの哲学者オルテガは社会学の著書に関して『社会とは何か?』という 根本的な問いに触れていないと述べた。彼は「個人と社会」という著作でこのこ とを指摘しつつ、『社会を構成する事実は慣習である』ことを明らかにしようと した。確かに社会が人々の人間関係の総体である以上、社会はそのコミニュケー ションの規則をなす慣習なしには成り立たないであろう。しかし、話を現代社会 に限ってみるならば、この社会を成り立たしめているものは法律である。一介の 地方公務員の立場から言わせてもらえば、社会とは法律をプログラムとして起動 する人工的な人間関係の総体である。無論、この見方は現代社会の一面を特徴的 に示したものに過ぎない。しかし、これは現に我々の生きる社会の本質的側面で ある。それまでの社会であるならば、人々の人間関係は法律で明示されぬ文化に よって秩序づけられていたと言えるだろう。しかし、現代において社会は巨大化 しこのような暗黙の文化だけでは律し切れなくなってきた。現代の市民社会と呼 ばれる中での人間関係は見知らぬ他人どうしの人間関係であり、契約にせよ何に せよ常に法律の裏づけが必要となったのである。

 このことを端的に示すのが「法律事実」という法学の概念である。我々が普通 「事実」と呼ぶものは「自然事実」である。しかし、同じ「事実」が社会とのか かわりの中に置かれるとこれとは違った意味合いを持ってくる。

「ひとつ二つ例をあげてみよう。私が海岸で貝殻を拾ったとしよう。私がそうし たことは法律事実であり。それは私のために貝殻の所有を設定し、また、特定の 個人に従属していない物は、最初にそれを自分のものとする人の所有物になると いう規範を発動させることになる。もし通行人の一人が私の手からその貝殻を奪 ったとすれば、第二の法律事実が発生する。すなわち、それは彼らにとっては所 有権に対する侵害行為であり、彼は、私に貝殻を変換す るかまたはその価格を 賠償する義務を負担するものとなり、それからおそら く、秩序違反に対して罰 金支払の義務を負担するであろうし、他方、私は、不法行為を理由とする訴えを 起し、賠償を請求する権利を取得するであろう。(P.G.ヴィノグラドフ 「法における常識」 岩波文庫 p87 )」

このように人間にかかわる諸々の「事実」には「自然事実」と「法律事実」との 二重性があるのであり、何かのトラブルの際、日頃は気づかれない「事実」の 「法律事実」としての側面が現れてくるのである。

 確かに、法律は人間が社会の中で具体的に○○しろと命令するわけではない。 しかし、人が社会人として仕事をし、事業を興そうとするならば、法律の定める 条件を一つ一つ満たしていかねばならない。今、このことで特に問題となるのは やはり規制緩和のことだろう。というのも、何かひとつの事業をしようとすれ ば、法律の要求する多くの規制を一つ一つ解決していかねばならないからだ。こ の問題の難しさは、巨大化・複雑化した社会において人々を守るために規制は必 要であるが、どの程度の規制が必要なのか必ずしもはっきりしない所にある。 人々は社会に対して多くの要求を出し、その度に多くの法律が作られるが、その 法律の一つ一つが社会全体のバランスを考慮して作られているわけではない。

 法律である以上、その条文が相互に矛盾してはならない。だから、ある条文で Aに対してBを許可すると言いながら、他の条文で許可しないということは許さ れない。従って、法体系というのは常に整合的であり、つじつまが合っていなく てはならない。だが、このことは別に法体系に限ったことではない。人間によっ て作られるもの、すなわち人工的に作られた体系は、数学の公理系にせよ、コン ピューターのプログラムにせよ、宿命的に矛盾なく整合的でなくてはならぬので ある。このことは少しでも事務を経験した人ならば容易に理解できるだろう。帳 簿のつじつまは常に合っていなくてはならないのだ。しかし、整合的であること は必ずしも合理的であることを意味しない。というのも、整合性は部分的なつじ つま合わせができていることを示しているに過ぎず、法体系そのものが全体とし て人々の望む通りにでき上がっていることを意味しないからである。むしろ整合 性を追求するあまり法体系があまりに複雑になり、社会と人間とが疎遠になって いるとも言える。このことは弁護士や税理士などの専門家がいなくては、個々の 人間が法律の事務を遂行できないことからも理解されよう。

 この整合性とは内に対する合理性である。だから、体系の内部に矛盾がないこ とを明らかにしても、その体系自身が外に対してどうなのかということには一切 関知しない。このような社会の整合性の追求は社会そのものをその外にある自然 に対していびつなものにしていった。人々は社会を通して経済的豊かさを手に し、個々の目的を実現していったが、そのために自然を破壊し、人間自身も戦争 やストレスなどによって傷つけられている。これは人工物たる社会が整合的であ る一方、無制約に肥大化したことのひとつの帰結である。皮肉なことに、この社 会と自然との関係はガンと人間との関係とに非常に似た所がある。ガン細胞とは 無制約に自己増殖をはじめた細胞のことであり、これらによって構成されるガン 組織は、栄養を吸収するため自己を組織化し、血管まで作り出す。しかし、これ はその無制約な増殖のために身体全体を破壊し、ついには人を死に至らしめる。 最近、地球環境の問題が云々されることが多いが、この問題は、現代社会のこの ガン細胞のような増殖作用を制御することなしには解決されないであろう。次回 は、より具体的にこの社会と現代史とのかかわりを見ていくことにする。

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