文化と文明とについて(4)


 ー来世の清算ー

「その日こそ、人間は続々と群なして現われ、己が所業を目のあたり見せられ る。
 ただ一粒の重みでも善をした者はそれを見る。
 ただ一粒の重みでも悪をした者はそれを見る。」
(岩波文庫「コーラン」より、『九九 地震』)



 最近、死後の世界のことがよく話題になっている。臨死体験の話や大霊界の物 語はテレビや映画などで取り上げられている。このことの背景には医学の進歩に よって実際に臨死体験をする人が増えたこともあるが、やはり基本的には今まで の文明的進歩の中で生のみを追求してきたことの反動であろう。そもそも来世に 対しては大まかに分けて3つのタイプの考え方がある。一つは人は死によってそ の人生の物語を終えるというもの。これはいちおう現代科学が指し示すものであ り、ある意味で常識的な考え方である。二つ目は死とは人間の魂と肉体との分離 であり、死によって人の肉体は滅びるが、魂は次々と肉体を持って生まれ変わり 輪廻していくという考え方である。仏教はだいたいこの立場を取り、インドやヨ ーロッパにおいてもピタコラス学派の考えに見られるように広く流布していた。 今、日本で話題になっている大霊界の話などもこの輪廻の来世観を前提としてい る。三つ目は、人の現世での人生は1回きりであるが、死によって魂は滅びず、 神による最後の審判によって地獄に行く者と天国に向かう者とがその人生の行い によって決定されるとするものである。この考え方は古くはゾロアスター教にそ の源を見るが、キリスト教とイスラム教とを通じて広く世界に受け入れられるよ うになった。特にイスラム教においてはこの最後の審判の情景が詳しく描かれて おり、一神教の中でも最も強くこの来世観を打ち出している。

 不思議なことに霊界ブームにもかかわらず、日本ではこの最後の審判の来世観 が取り上げられることがほとんどない。確かに世界史において最後の審判の考え は新しいタイプの来世観である。それはキリスト教やイスラム教の広がりによっ て流布したのであり、それまではむしろ輪廻の来世観が一般的であった。それで はなぜ世界はこの新しい来世観を受け入れたのだろうか? この答えとなるのが 冒頭の「コーラン」の言葉である。最後の審判が人々に保証するのは何よりも公 平と正義との実現であるといえる。「コーラン」の中では他にも来世に関する清 算の言葉に満ちている。これによると地獄に行く者、天国に向かう者との審判は まさに現世における信仰、そしてその信仰に基づく行いに関して一人一 人つい て記載された巻物に従って行われる。良き人々には審判の際に右手にそれが渡さ れ、悪しき人々には左手にそれが渡される。その内容は正確に細かく記載され、 そこに変更の余地はない。日本人の発想では「地獄の沙汰も金次第」という言葉 のように来世の清算はそれほど厳格ではない。一説によると、人は地獄で閻魔大 王の前で裁きを受けるが、その際、地蔵菩薩が弁護者としてその人を弁護すると いう。これはいかにも日本的だが、イスラムではあり得ない。

 このようなイスラム的来世観ほど日本人の感覚からほど遠いものはないだろ う。事実、今日の新興宗教ブームにもかかわらず、イスラム教系の新興宗教は見 当たらない。日本人の立場からすれば、完全な悪人などいないのだから、このよ うな厳しい審判は酷だということになるだろう。私自身「コーラン」に書かれて いる地獄の記述を見ると、何故有限な 人間が無限の苦しみを受けねばならぬの かと感じる。しかし、イスラム教の生まれた時 代、そしてその社会を考えるな らば、このような厳格な審判を説く来世観こそが求められていたといえる。当時 のアラブ社会は今の日本のように国際化の時代にあった。にもかかわらず人々は それまでの部族意識から抜けられず、各地で争いを繰り返していた。イスラムの 教えとはこのような混乱の時代にあって部族や民族を越えた正義とそれによる救 いがあることを明らかにした教えである。人はその個人個人の行いによって審か れる。これは極めて単純明解な教えであるが、現実には実現しがたい理想であ る。殊に、あらゆる民族や人種の入り混ざる社会においては種々の偏見や差別が はびこり、社会はますます正義や公平の理想から離れていく。このような現実社 会にあってイスラム教がいかに有効であったかはその後の歴史が示している。今 でこそ宗教は民族問題とからんで争いの種となっているが、中世のサラセン帝 国、近世のオスマントルコ帝国の時代を見るならば、いかに長い間人々が差別と 争いとの禍を避け、高い文化を維持していたかを理解できるだろう。今日の中東 や旧ユーゴでの紛争は、これに対してむしろヨーロッパの植民地主義の負の遺産 であり、彼らの持ち込んだナショナリズム禍によるところが大きい。

 しかし、厳格な正義と公正の理念だけでイスラム教が人々の心をとらえたわけ ではな い。神が人々を赦し、救う者でなければイスラムの信仰は成り立たない だろう。キリスト教が「罪」を説くように、イスラム教もまず人間の否定的側面 を明らかにする。それは人間の「無力」と言っていいだろう。人は神の前では自 分の髪の毛一本も黒くも白くもできない無力な存在である。しかし、神は現に生 きる人間一人ひとりに生きるすべを与え、信じる者には必ず救いの手を差しのべ る。この神と人との関係は帆船に乗る人と風との関係にたとえられるだろう。い かに優秀な航海士でも風なしに船を進めることはできない。人は神の送る風に従 い、自らの船を操ることによって航海できるのである。思うに、この発想が今の 日本人とイスラムの考え方との決定的な違いだろう。日本では成功した人の努力 や苦労が賞賛され、またその人はそれまで自分を助けてきた人々に感謝する。し かし、自分の心臓を動かし水や空気を与えてくれる自然や神にまで敢えてその意 識を及ぼすことはない。事業で名をなした人の多くはかつての苦労を自慢げに話 すが、自分を超え自身を生かす神には一顧だにしない。彼らの誇る成功は波に浮 かぶうたかたのようなものであり、たまたま自分が波の頂点にいることを自慢し ているに過ぎない。このことはバブルが崩壊した今になって見ればよく分かるこ とである。

 このようにイスラム教は一神教のあり様を端的に示しているが、それ故に典型 的な父性的宗教と見られている。しかし、前にも述べたように父性と母性との2 つの原理は別々のものではない。「コーラン」の各章の冒頭には「慈悲深く慈愛 深きアッラーの御名において」の文句が掲げられている。イスラム教では神は 「アッラー」と呼ばれ、イスラム教徒はこの名をよく唱えるが、それまでの一神 教では神の名が口にされることは少なかった。「汝の神エホバの名を妄に口にあ ぐべからず」と十戒にあるとおりでる。そもそも「エホバ」という名そのものが ユダヤ人たちがあまりに神の名を口にしなかったため過って流布した名なのであ る。私はここにイスラムの隠れた母性原理を感じる。というのも、父の名は妄り に口にできないが、「かあさん」とか「ママ」とかの母を呼ぶようにイスラム教 徒は「アッラー」の名を口にするからである。このような親しみを持つからこそ イスラムの来世観は、その厳しさにもかかわらず、世界に受け入れられたのだ。

 いかなる来世観を取るにせよ、人間は死を通して自分の人生を意識する。たと え、死 によって自分の意識に終止符が打たれるにせよ、その瞬間にそれまでの 生が問われるはずだ。このことは投身自殺を図った人が、その落ちる間に自分の 人生を瞬間的にかいま見るという話からも分かるだろう。それ故、来世を語るこ とは自らの生きる世界を語ることであり、来世の教えは現世のあり方を規定す る。社会学的にイスラム教を見るならば、そこに語り得ない神の語り得る社会に おける働きを理解できる。次回からはこの現実の社会そのものについて述べるこ とにしよう。

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