文化と文明とについて(3)


 ー父としての神、主としての神ー

「その時、長者は即ちこの念をなせり、『この舎は、已に大火のために焼かるる をもって、われ及び諸子にして、若し時に出でざれば、必ずために焚かれん。わ れ、今、当に方便を設けて、諸子等をして、この害を免がるることを得しむべ し』と。」 (法華経・比喩品 「岩波文庫 162p・164P」)


 広大な長者の屋敷で火事が起こった。中では彼の幼い子供たちが遊んでいる。 だが、なぜか出口は小さな門ひとつしかない。長者は子供たちに逃げろと叫ぶ が、火の恐ろしさを知らぬ子供たちはおもちゃに夢中でその声を聞いてもキョロ キョロするばかり。そこで彼は一計を案じた。子供たちにもっと素晴らしいおも ちゃが外にあるぞと長者は叫ぶ。子供たちは喜んで出口をくぐり、新しいおもち ゃを手にした。これが有名な法華経の中の火宅の比喩のあらすじである。上に引 用したのはこの長者の一計を案じたくだりだが、この部分に救い手としての長者 と救われるものとしての衆生との関係が端的に示されている。火宅とはこの欲望 に満ちた現実世界のこと。そして、その中で遊ぶ子供たちはその欲望の恐ろしさ を知らぬ衆生のことであり、長者とは如来、すなわちこの衆生を仏の教えへと導 かんとする救い手である。この物語の中でこの救い手は衆生に対して実に見事な 配慮を払っている。衆生が自らの危険を知らぬが故に、わざわざ素晴らしいおも ちゃがあるという方便を用いて彼らを導いている。このおもちゃこそ真の仏の教 えとされるものであるが、ここで注目されるのは衆生が物事を判断できぬ子供た ちにたとえられ、救い手が彼らの父である長者にたとえられているということ だ。子供なるが故に彼らは善悪を知らず、長者は方便という配慮によって彼らを 導かなければならない。このようにここでは救いの責任は救い手である長者の側 に帰されている。

 この法華経は日本において最も影響力のあった経典である。法華宗と呼ばれる 日蓮宗は言うに及ばず、禅宗にせよ浄土宗にせよ、これらが最澄の開いた比叡山 出身の僧によることを考えれば、日本人の宗教観の土台となった大乗経典の一つ と言ってよいだろう。しかし、目を外に転じるならば法華経の説くような救い手 の衆生との関係は長者とその子供たちという形のものだけではない。日本以外の 一神教の文化においてはもう一つの違った形の救いの関係がある。

「主人のきたる時かく為し居るを見らるる僕は幸福なり。誠に汝らに告ぐ、主人 すべての所有を彼に掌どらすべし。若しその僕、悪しくして心のうちに主人は遅 しと思ひて、その同輩を(タ(たた)きはじめ、酒徒らと飲食を共にせば、その僕 の主人はおもはぬ日しらぬ時に来りて、之を烈しく笞ち、その報を偽善者と同じ うせん。其處にて哀哭(なげき)・切歯することあらん。」(新約聖書・マタイ 伝 24:46ー51)

ここでは救い手は神としての主人、救われるべき衆生は僕として表現されてい る。この救いの関係において救い手としての神はあの長者のような配慮を僕に払 うようなことは決してない。僕はすでに善悪の区別を知っており、自らの行為に 責任を待たねばならない。僕は決して主人の奴隷ではないが、主人は僕を奴隷に 落とす権利を持っている。キリスト教において神は天にまします我らの父である が、同時にこのような主人としての側面を持っている。

 今日に至るまで日本ではこの形の救いの関係は受け入れられたことがない。そ れは日本人にとってこの主人があまりに恐ろしいと感じられるからだ。しかし、 実際には必ずしもそうではない。聖書をよく読むならば、この主人は善悪のけじ めに厳しいが故に、むしろ優しいともいえる側面を持っている。自ら正しい道を 歩もうとするならば、主人たる神はその人を決して見捨てることはない。それど ころか、自らの過ちを認めるものに対しては寛大であり、人々を常に忍耐強く導 こうとしている。この主人と法華経の長者との決定的な違いは救われる側の責任 能力の有無によっている。長者の場合、救われる者は善悪を知らぬ子供たちであ った。だからこそ「方便」という手段を用いたのである。しかし、主人の場合に は僕はすでに一定の責任を背負った人間である。それ故に主人は僕の責任を厳し く問うのであるが、その一方で彼らの能力を評価し、時として彼らを赦すのであ る。

 よく日本人の特徴を説明するのに父性原理と母性原理との対比が用いられるこ とがあ る。つまり、日本人の社会は母性原理によっているが、キリスト教やイ スラム教などの一神教は父性原理によると言うのである。日本社会にせよ一神教 にせよそれぞれをどちらか一方の原理だけで説明しようとするのは無理がある。 しかし、どちらかの原理に偏りがあることは十分に考えられる。言葉の上からは 奇妙に思われるかもしれないが、父としての長者と衆生との関係は母性原理によ っている。というのも、ここでは衆生はまだ幼い子供であり、救い手としての長 者とは母性的な親と子との関係にあるからである。これに対して、主人と僕との 関係は父性原理によっている。それは僕にすでに責任能力があり、主人と僕との 関係はすでにこの段階を過ぎているからである。

 日本人はこの父性的関係を厳しいと感じ、敬遠するが、この関係の自由さを感 じることはない。しかし、むしろ一神教の文化になれた人々は日本の文化に息苦 しさを感じるだろう。何故なら、母性原理においては人間には責任能力がないと 見なされているから人々は常に救い手の側の規則に縛られなくてはならないが、 父性原理においては自分で自分の救いの可能性を切り開くことができるからであ る。よく日本人は同質的で自己主張ができないと言われるが、ここにもこのよう な文化的背景があるように思われる。例えば、最近話題になっている規制緩和の 問題についてもそうである。日本人がどうしても今まで本格的に規制緩和に踏み 切れない理由は、既得権の問題もあるが、何よりも政府や行政が救い手として国 民の行為に対して過度に責任を取らねばならないという感覚があるからである。 食糧や医薬品などの直接命にかかわるものは別として、単に経済的理由から多く の規制があるのは母性原理による救い手と衆生との関係があるように思われる。

 こうして見ると母性的な原理を基本とする日本の文化も曲がり角に来ている感 がする。しかし、心理学的に言えば、母性原理から父性原理への移行は自然なこ とであり、またこれによって母性原理が捨て去られるわけでもない。むしろ正常 な移行は母性的なものをより高いレベルで生かすことになる。この意味で次の法 華経の文句は注目に値する。

「力・無所畏有りと雖も、しかもこれを用いずして、但、知恵・方便のみをもっ て、 三界の火宅より衆生を抜済せんとして、ために三乗たる声聞と辟支仏と仏 との乗を説きて、この言を作すなり」(「岩波文庫」174P)

ここにおいて長者は子供たちを力ずくで門の外に追い出すことができたにもかか わらず、敢えて「方便」を用いた理由が語られている。それは子供たちを強制で はなく、彼らの意思に沿う形で導くのでなければならないと言うことである。救 いは単に救い手によって衆生に与えられるものではない。むしろ救われる側の自 発的な意思によって成り立つのであり、だからこそ長者は方便を用いたのであ る。ここに母性原理と父性原理とを結びつける導きの糸があるように思われる。


P.S.法華経と新約聖書とのこの救いのあり方の違いをより詳しく理解された い方には  新約聖書のルカ15章の物語と法華経の信解品の中にある長者窮子の 比喩(岩波文庫   「法華経(上)」 222ー263p) とを比較してお読みになる ことをお勧めします。

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