| ホンコン・シティ・キャット |
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01/05/2002 作:星野ケイ
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「このクソガキ!」 起き上がると見せかけて、三人目の男がジェリィに足払いをかけた。とっさのことで、ジェリィもまともに足をすくわれた。空中で身体をひねってはみたけれど、悲しいかなその身は猫じゃないので、横っ腹からどうっと床に倒れこむ。 「おっ?」 自分の捕まえた容疑者に神経を集中していた星仔たちが、突然の物音にたまげて顔をあげる。 だが、そのときには問題の男は、開けっ放しになっていたドアから転がり出ていた。 「追え!」 言われるまでもない。 ジェリィは鉄砲玉のように部屋から飛びだした。 廊下は暗い。 暗闇に慣れない目をこする二、三秒の間に、男はさっさと階段にたどり着いていた。ずいぶん長い間ここをアジトにしていて、真っ暗な廊下にも慣れているのだろう。暗闇をものともせず、ダダダダと駆け降りていく。その足音が響く。 これが一年後であれば、猫人間となったジェリィにとって、暗闇などなんの障害でもなかったろう。そもそも、足をすくわれたからといって、着地に失敗することもなかったに違いない。 けれどもこのとき、ジェリィはまだ、ただの人間。 「ど、どこだ? 階段、階段……」 いきなり足を踏み外さないように手さぐりしながら、おたおたと後を追うことしかできない。 それでも、こういうときには生来の敏捷さと頭の回転の速さがモノをいう。 暗闇を探った手が窓枠らしきものに触れたとたん、ジェリィは方針を転換した。 ジャンパーを脱いで肘に巻きつけ、その肘を窓とおぼしきところへ叩きつける。がしゃああん、と派手な音がしてガラスが砕け、サッと色とりどりのネオンの光が差し込んできた。 首を突き出してみれば、窓の脇の壁には古びた水道管。体重を預けるにはどうにも頼りないけれど、背に腹はかえられない。 思ったとおり、水道管は握っただけでぎしりと嫌な音をたてた。ジェリィは窓枠に片足をかけたまま、危ないところでバランスをとりつつ、水道管のほうへ身体を移動させる。 水道管を固定していた金具がバキッと折れた。 「ひー」 あわや水道管と共に落下、という直前で、ジェリィは水道管を振り子がわりにして反対側のビルへ飛んだ。幸い、このあたりはビルが密集している。難なくビルの出っ張りに着地し、きわどいところで体勢を立て直し、さらに足下に見える張り出しへ飛び下りた。 右へ、左へ。軽々と。 そうやってジェリィが地面に着地したのと、階段の出口から男が飛びだしたのが、ほぼ同時。 「うひゃっ!?」 予想もつかないところから現れた刑事に仰天して、男は弾かれたように飛びすさった。 そのまま勢いを利用して、そっちの方角の路地裏へ逃げ込むあたりが、さすがに年季の入った悪人というべきか。 「こ、こら待て!」 ジェリィは慌てて走り出した。 男の背中はたちまちのうちに、路地の暗闇の中へ溶け込んでいこうとする。逃がすものかとばかり、ジェリィも息を吸い込んでスピードを上げようとした。 そのとき。 「わわわっ!」 男が急に、何かにつまずいたかのように足を宙へ浮かせ、ずでんどうとひっくり返った。 起き上がる前にと、ジェリィは一気に地面を蹴って、男に飛びかかった。 体重をかけて地面に押さえつけておいて、今度こそ恰好にこだわらずに手錠を取り出す。けれど、焦る必要はなかった。打ちどころが悪かったのか、容疑者はあっけなく失神している。 その両手にがちゃりと手錠をかけて、ホッとひと息。 そして初めて、人の気配に気がついた。 「……え?」 ジェリィは驚いて顔を上げた。 キョロキョロと見回し、やっと発見する。その人は、路地の入り口あたりにひっそりとたたずんでいた。ネオンの照り返しで、人間の輪郭だけがぼんやりと暗闇に浮かび上がっている。 路地の外を車が通りすぎた。 そのライトが、男の顔を鮮やかに照らしだした。 穏やかな、整った顔だちの男だった。女なら、十人が十人とも振り返るだろう。むし暑い夜だというのに、黒のコートを羽織って、汗ひとつかいていない。 異邦人に違いない、とジェリィは思った。 香港の返還の夜を見物にきた観光客だろうか。いかにもそれらしい、裕福な者だけがもつ傲慢さを漂わせた青年だった。 「エ……エクスキューズ、ミー」 ジェリィはおそるおそる、下手な英語で話しかけることにした。 というのも、他でもない。容疑者が暗闇でいきなり転んだのは、この青年が足を引っかけてくれたせいではないか、と思い当たったのだ。 捜査に協力した市民に「好市民獎」を申請するかどうか本人の意志を尋ねる義務が、警官にはある。 「あ、でも外国人には好市民獎を出さないのかな」 ジェリィはためらった。 その間に青年はさっさとジェリィに歩み寄ってきた。目を細め、興味深げにジェリィを見下ろす。 「いててててっ」 次の瞬間、ジェリィは思わず悲鳴を上げていた。 「な、何すんだっ! 離せよっ」 いきなり、腕をつかみあげられたのだ。 青年は優男に似合わぬものすごい力で、ジェリィを腕ごと引き寄せた。鼻が触れ合うほどに近づいた彼の顔には、大筆で興味津々と描いてあるかのような表情が浮かんでいた。 「----面白い」 流暢な広東語だった。 男でもついウットリしてしまいそうな、低い、甘い声だった。 いや、それよりも。 「な……何が?」 ジェリィは途方に暮れるしかなかった。 自分が一般人の基準に照らしてかなり変わり者だという自覚はあるけれど、いくらなんでも、初対面の相手に面白いと言われて、そうですかと応えるほど呑気にはなれない。だいいち、こいつ何者なのだ。いきなり仕事中の刑事をつかまえて「面白い」だなんて、失礼きわまる振る舞いではないか。 どれくらいの間、見つめ合っていたかわからない。 突然、男はジェリィの腕を離した。 冷たい美貌に、薄い笑みが浮かぶ。 「縁があれば」 「は……はあ?」 「縁があれば、また会おう」 青年は、ジェリィの困惑なんか歯牙にもかけない。目をぱちくりしているジェリィを尻目に、くるりと背を向ける。 黒いコートが夜になびいた。 「ちょ、ちょっと待てよ! あんた、一体……」 一瞬気を飲まれたジェリィは、次には声を荒らげて、青年を呼び止めようとした。 突然、表通りのほうでワアッと喧騒が弾けた。 花火だ。 中国とイギリスが共同出資して行われる、世紀の花火大会である。香港名物のネオンもイルミネーションも、このときばかりは茫とかすんだ。 花火の大盤振る舞いは、熱気に油を注いだ形となった。 歓声を上げた人々は、そのまま海沿いのプロムナードへと押し寄せていく。 青年の姿は、あっという間にその人込みに飲み込まれ、消えてしまった。 ジェリィは未練がましく周囲を見回し、それから肩をすくめて立ち止まった。 「こんなことしてる場合じゃねえや」 頭を振り、容疑者のほうへ戻る。背中に活を入れて目を覚まさせ、引き起こした。 「おおーい、ジェリィ!」 その頃になってようやく同僚の刑事たちがどやどやとビルから下りてきた。 「おっ。捕まえたねえ」 「よかった、よかった。これでイー警部にお小言を頂戴せずにすむぜ」 「なに言ってんのよ。無事に全員逮捕しようがどうしようが、お小言がなくなったりするはずないでしょ」 刑事たちは大騒ぎしつつ、逮捕した容疑者をひったててタイガーの待つ車へと向かった。 ジェリィはもう一度だけ、青年の消えた方角へ振り返った。 「ヘンなやつ、だったよな」 誰にも聞こえないように、小さな声で呟きながら。 「黒ずくめで、年齢不詳で。吸血鬼みたいで、さ」 この奇妙な美貌の青年のことを、ジェリィはすぐに忘れてしまった。 なんといってもその日は、香港全土が鳴動した返還前夜。そして、ジェリィが油麻地で初手柄をたてた日。ジェリィの心には未来に対する夢や希望がいっぱいで、他のことなんか考える余裕はなかったから。 再び青年と再会し---彼が自分にとって忘れられない存在となった後も、ジェリィは、この日のことを思い出しはしなかった。 青年のほうは。 今となっては彼がそれを覚えていたか---そのとき、その瞬間からジェリィに運命を感じていたのかどうか。 そのことを、知る者はない。 |
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