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その男は堂々たる足ぶりで、警務處長のオフィスに入ってきた。
警務處長といえば、日本における警視総監である。一般人は元より、警察の関係者であってもおいそれとは足を踏み入れることのかなわぬ部屋だというのに、彼は臆した様子もない。乱暴に扉を閉めると、鋭い目で室内を見渡した。
素っ気ない装飾が売り物の警察でも、警務處長室ともなるとさすがに調度品などが置かれる。マホガニー製のデスクの足には彫刻が施され、品のいい応接セットなども並んでいた。
その、応接セットのソファに座っていた男が、無遠慮な侵入者に仰天して立ち上がった。
「あ、あなたは何者です?!」
誰何の声に、侵入者はギロリと視線を向けた。ソファの男はたちまち意気地をなくし、おどおどと座り込んでしまった。大柄なくせに気は弱いらしい。
一方、無礼な侵入者の方は、体格は小柄なのに態度は二倍くらい横柄である。彼は大股で部屋をまたぎ、ソファに隠れるように座る男の前に立った。ぐい、と胸を反らしてそいつを睨みつけた。
「貴様、なんでこんなところにいる」
自分のことは棚に上げて、偉そうに言う。
「ここは警務處長の部屋だぞ。一般人がみだりに立ち入ることは許されん」
「わ、私は一般人ではない!」
慌ててソファの男は、懐から身分証を取り出した。
「私はマイケル・周、医師です。香港政庁から派遣され、ランタオ島を調査して戻ったところでして、何はともあれ、まず報告をとやってきたのです。決して怪しいものではありません」
「なんだ」
男はすぐ、興味を無くしてつまらなそうな顔になった。もう少しで襟首をつかまれて放り出されそうになっていたマイケル・周は、ホッと安堵の息を吐いて座りなおした。
「それで、あなたは誰です?」
男は、少し誇らしげな顔になった。
「俺か?俺は香港皇家警察、反毒組(麻薬Gメン)の李鐵堅だ」
「何ですって?!」
マイケル・周は目を丸くした。
「あなたが、あの有名なアイアン・李?!」
その名は最近、香港全土にとどろき渡っていた。ヒラの刑事でありながら、たった一人で、台湾から南米にのびる麻薬密輸ルートを叩きつぶしたという男である。意志を貫き通す頑固さと、強靱な精神、そして行動力は、現代の英雄として人々の噂の的であった。その割に、彼の真実の姿は世に知られていなかった。マスコミ嫌いで自己宣伝も嫌いな男だから、と香港警察は説明していた。巷では、アイアン・李に会ったことがあるという人々が次々にテレビに出演し、少なくとも五種類の目撃報告による人物像が雑誌に紹介されていた。
マイケル・周は眼鏡をかけて、目の前の人物を見直した。
見れば見るほど、噂とは当てにならないものだと感心するような男だった。片目がつぶれているわけでもなく、顔の半分が火傷に覆われていたりもしない。背が二メートルあるわけでもないし、ゾッとするようなハンサムでもない。
そこに立っているのは、傲慢で態度のでかい、ただの小柄な中年男であった。
年の頃は三十後半、ざんばら髪を面倒くさそうにかきあげて煙草をくわえている。それもマルボロの一番安い煙草だ。よれよれのネクタイはいかにも、警務處長に会うためやむなく巻いてきた、といわんばかり。顔は、ハンサムといえなくもないが、目の鋭さでバランスが台無しである。がさつそうで、乱暴そう。こんなおっさんが本当にあの英雄、アイアン・李なのであろうか?
「俺は、英雄なんて言葉は大っ嫌いだ」
言下に、アイアン・李は機嫌を損ねた。
「世の中は大勢の人間の地道な努力で成り立っているもんだ。英雄崇拝は、結局は誰かに頼りたいという甘え心の現れだろう。だから俺は英雄なんぞになりたくはないし、英雄なんてものは、この世に存在してはならんと思うのだ!」
いきなり怒鳴りつけられて、マイケル・周は面食らった。見ればアイアン・李はこちらをグッと睨みつけている。うろたえていたら胸元をつかまれ引きずり上げられてしまった。
「特に俺はあの、東方黒豹とかいう奴は気に入らん。ああいう奴がいい気になって飛び回るから、中国という国は人民が腑抜けになってしまうんだ」
どうやらアイアン・李は、自説に対してマイケルの同意を求めているらしい。
東方黒豹、という名前をマイケルはもちろん知っていた。今、アジアで彼の名が知られていない国はあるまい。アジアだけでなく外国でも"アジアの黒い豹"の名は囁かれていた。
東方黒豹。
彼こそは、貧しい庶民が救いを求め、悪人たちがその名を聞いただけで恐怖に震える、世紀の英雄である。彼はあくまで正しく、とてつもなく強い。そうして、その力と知恵で、多くの人々を救ってきた。
一説によると彼は、はるか昔から存在して、苦しむ庶民の味方をしてくれた超人であるという。また別の話では、東方黒豹というのは個人名ではなく、代々受け継がれてきた正義の味方の総称という。しょせんは噂だが、実在することだけは間違いないらしい。
東方黒豹こそは、正真正銘の正義のスーパーヒーローである。
中国全土を活動範囲にし、ときにはアメリカやヨーロッパにも姿を見せる。その目的は基本的に、中国人民の平和と幸福を守るためにあるようで、弱きを助け強きをくじく活躍は、広く世界に知れ渡っていた。弾よりも速く走り、岩をも砕く。どこまで本当かわからない点では、アイアン・李の伝説にも似ている。
だからマイケルに言わせれば、アイアン・李が東方黒豹を嫌うというのは、単なる同類嫌悪としか思えない。
何とも答えられずに口をぱくぱくさせていたら、アイアンはペッと唾を吐いて、いきなり背中越しに言った。
「そこの坊やも、そう思うだろ?」
驚いてマイケルもそちらを見た。すると、さっきまでは気づかなかったが、隅の秘書机に青年が一人、ちょこんと座っていた。彼は視線に気づき、にこりと笑って頭を下げた。
そんなところに人がいたなんて。秘書というのは気配を消す名人でなくてはならないそうだが、彼は理想的だ。ただ彼の服装は、秘書にしてはあまりにお粗末だった。薄汚れたシャツに、くしゃくしゃの髪の毛。ぷくっとした頬は真っ赤なりんごで、どう見ても農家の青年である。
「さっきから気にはなっていたんだが……」
アイアンの目が、獲物を捕らえた猛獣のように光る。
「この部屋の招かれざる客は、お前のようだな!」
言うが早いか、アイアンは攻撃に出た。マイケルが後生大事に抱えていたファイルを奪うなり、その青年に投げつけたのだ。手首のスナップをきかせて投げたそれは、十分な凶器となって青年の顔面を襲った。当たっていたら、血を流すぐらいではすまなかっただろう。
だがそれは、当たれば、の話である。
青年は、信じられない方法でファイルの攻撃を避けた。
助走もなく、いきなりその場で宙に舞ったのである。
今まで座っていた椅子を蹴って、その勢いで……という理論はわかっても、どんな訓練をすれば、足と腹の筋肉がそんな瞬発力を持てるのかは不明である。青年の身体は一気に天井まで跳ね上がり、くるくると回転して着地した。もちろん、着地するときにはぴたりと足を地につけている。それだけのアクションをこなしておきながら、着地の衝撃すら感じさせない。まるで彼の周囲だけ重力がなくなったようだ。
「なるほど、ただのネズミじゃなさそうだ」
ぺろり、とアイアンが唇の端を舐めた。心なしか、嬉しそうである。彼もすでに足を開き、ケンカの構えになっていた。
「俺たちが自己紹介してるってのに、お前だけ黙っているのは礼儀知らずってもんだろう。さっさと白状しろよ! どうせ警務處長の部屋に忍び込もうってタマだ。ロクなもんじゃあるまい」
青年は返事をしなかった。相変わらずにこにこと純朴な笑みを浮かべて、平然とアイアンに対している。手はだらりと下がり、一見隙だらけ。しかし先程の動きも、何の構えもないところから生み出されたものであるだけに、油断はできない。
まさに一触即発。
「や、やめてくださいよ!」
マイケルは間に挟まれて、泣き声を上げた。
そして、アイアンが拳を固めて殴りかかろうとしたときだ。
「何をしておるんだ、君たち!」
扉が開いて、仰天した声がした。
マイケルはホッとして救いの主に目をやった。そして、たまげて飛び上がり、敬礼した。
アイアンは殴りかかった姿勢のまま、ちっと舌打ちをした。それでも仕方なく、居住まいを正して敬礼をする。
「しかし、この坊主が勝手に部屋に入っておりますもので」
アイアンは、今しも部屋に入ってきた警務處長に平然と文句を言った。青年は別に敬礼をするわけでもなく、慌てて逃げるでもなく朴訥そうな顔をして立っている。
「勝手に、ではない! 私が彼を呼んだのだ!」
警務處長は目を三角にして怒った。
「處長が、ですか? こんな農家の坊やを執務室に呼ぶなんて、いったいどういうことです。こんな餓鬼は受け付けロビーに待たせて面会すればいいことですよ。そんな分不相応なことをするから、私はこいつがスパイではないかと疑って……」
「農家の坊やではなーい!」
警務處長は絶叫した。
「お前の前にいるその若者こそが、かの有名な"東方黒豹"だ!! 私が、今度のランタオ島の事件のために呼んだのだ!」
「な……」
驚きを量で表すとしれば、恐らくアイアンよりはマイケルの方が多かっただろう。マイケルは目を皿のようにして、目の前のとっぽい若者を凝視した。彼は少し照れたようで、頬を赤くしながらぺこりと頭を下げた。半ズボンから膝小僧が見えている。はだしの足に履いているのは、ぺこぺこの中国靴。つり目で、愛嬌たっぷりの顔といい、どこから切っても、中国の山出しの田舎者である。
マイケルは隣の、仏頂面の小柄な中年男に目をやった。
それから目を、のほほんとした田舎の青年に戻した。
あれが香港の英雄、アイアン・李で。
これが中国の英雄、東方黒豹。
アイアン・李は、まだいい。英雄とはいっても、自分と同じ人間であることは、判明している。しかも刑事という、お役所の禄をはむ公僕である。象徴的な意味で英雄と呼ばれているだけのことだ。
けど、東方黒豹となると、話は別ではないか。
「ほんとに……ホンモノ?」
二十歳過ぎくらいのその若者は、良い子の笑顔を満面に浮かべて頭を下げた。
「中国政府からの依頼は三日前に届いていたんですが、汽車の切符が取れなくて、遅れてしまいました。ごめんなさい」
マイケルは、あんぐりと口を開けて硬直した。
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