東方黒豹

- アジアン・ブラック・パンサー -

第2回


 香港は中国の南端、九龍半島の突端と大小の小島で構成される、世界で一番元気なイギリス植民地である。
 九七年に、中国本土に返還されることが決定しても、住民たちは平気の平左。何とかなるさで今日も商売に忙しい。
輝くネオンとイルミネーション、東方の真珠と呼ばれるこの街では、表の世界も裏の世界も商売繁盛。黒社会と呼ばれる香港マフィアはせっせと悪事にいそしみ、そうでない人々も、それなりにお仕事に取り組んでいる。活気のある街には人と物が吸い寄せられてくるもので、港町というよりは既に、世界中の貿易の集中する街として、香港の存在意義は増すばかりである。
 従来の啓徳空港では溢れる観光客をさばききれなくなった香港政府は、やむなく新空港の建設に踏み切った。とはいっても、全面積が東京の半分しかないというのに、東京の二倍の人間が住んでいるという超過密都市。現在の空港でさえ街のど真ん中にあって、着陸の際に飛行機の羽根が洗濯物をひっかけそうだと騒ぎになるというのに、この上、新しい空港を建設する土地など、どこにもない。
 しかたがないので政府は、たくさんある島を利用することにした。
 行政の中心地である香港島の、二倍の面積を持ちながら全く開発されていない、ランタオ島へ空港を作ればいいじゃないか、というわけだ。そうすれば島も発展するし、言うことなし。政府は軽い気持ちで建設を開始した。
 すると、問題が出てくる出てくる。
 まずは土地の買収でもめた。次には、空港の位置が風水を遮断するので良くないという住民運動が起こった。挙げ句の果てには、当初の予定より計画が遅れ、九七年までには完成しないという事態にあいなった。作りかけの空港を押しつけられる中国政府は、もうカンカンである。イギリスが勝手に作ったものなど、引き取らないといって大ゲンカになった。
 その矢先に、今回の事件である。
「何をぼおっとしているのかね!」
 呆然と東方黒豹の前に立ち尽くしていたマイケルは、いきなり警務處長に怒られた。
 警務處長はイライラと、執務室の中を歩き回っていた。
 まるで檻に入れられた熊のようだ。
 実際にもそんな心境なのだということは、調査を依頼されたマイケルがよく知っていた。 今回のランタオ島の事件は、それほど恐ろしく、せっぱ詰まったものなのである。
「その通りだ。だからこそ私は、今回の捜査のために、わざわざ中国から東方黒豹を呼んだのだ」
 こんな時期に中国へ借りを作ることの愚は、誰にでもわかることだ。しかし、うさんくさい民間伝承の英雄なんかに頼らなくてはならないとは、處長もさぞ業腹なことであろう。
後に處長は打ち明けたものだ。ワラにもすがる気持ちで中国政府に打診してみたが、本当に東方黒豹などという人物が実在して、しかも要請に応えて来てくれるとは夢にも思っていなかった、と。
 夢ですら期待されていなかったヒーローは、そんなことおかまいなしでソファに腰をかけた。ちょこんと膝を揃えて座っているところは、どう見てもただの若者以上ではない。さきほど見せたしなやかなアクションがなければ、いくら警務處長のお墨付きがあったとしても、とうてい信じることはできなかったろう。
 處長も、呼んではみたものの彼がどの程度のものかという点では不安があったようだ。
「それで……君は、政府の依頼で動いているのかね」
 東方黒豹は、にこりと笑った。
「それが正しいことであれば、はい。政府の要請も受けます。僕の仕事は、世界に平和をもらたすことですから」
 せちがらい世の中で生きている者が聞いたら背筋がかゆくなるようなことを、東方黒豹はきっぱり言ってのけた。中国の奥地には、まだまだこんな若者がまっすぐ育つ土壌が隠されているらしい。ともかくここには、正義と愛で純粋培養された、生まれながらのヒーローがいるわけで、マイケルとアイアン、そして香港における正義の行使者たちのリーダーであるはずの警務處長までが、背中をぼりぼりと掻いてしまったのであった。
 嘆かわしい。
 東方黒豹は、そういう嘆かわしい大人たちの様子には気づかず、しごく真面目に尋ねた。
「中国政府からは何の説明も受けずに来たのですが、まだ中国の国土にはなっていない香港へ僕が呼ばれるというのは、よほどの大大事件が起こったわけですね」
問いに、警務處長は重々しく頷いた。
「その通り。大変な事件だ」
「しかし僕が香港に来てから見たテレビにも新聞にも、世間を揺るがすような事件は報道されていませんでした」
 マイケルと處長は、顔を見合わせた。
 そう。ランタオ島はもはや、噂の英雄にでも登場してもらわなければならないほどの、たいへんな情況に陥っていた。
 だが、奇妙なことに、それほどの事態でありながら、香港市民はまるで情報を知らされず、平穏な生活を送っていた。この種のセンセーショナルな事件には異常なほどに鼻のきく香港のマスコミも、まったく気づいていなかった。
 全ては、厳重な報道管制下で進行していた。なぜなら、知られただけで全香港がパニックに陥り、その被害は想像に絶するものになると予想されたからだ。
「マイケル。それでは調査結果を報告してもらおう」
 警務處長に促され、マイケルは立ち上がった。アイアンは東方黒豹をいまいましそうに睨み付け、離れたソファに腰を下ろした。警務處長は腕組みをして背を向け、窓から遙か眼下に広がる香港の街を眺める恰好になった。
 マイケルは咳をひとつして、話し始めた。
「そもそもの始まりは、ランタオ島の刑務所で始まりました……」

 香港の周辺の海域には、人食いザメが生息している。
 それゆえ、香港の犯罪者を収容する刑務所は、各島に分散して置かれている。たとえ島を脱出したとしても、サメのために海を泳いで逃げることが不可能なので、犯罪者にとっては逃げるに逃げられぬ自然の監獄となるわけだ。
 ランタオ島にも、三箇所に刑務所がしつらえてある。一島に一刑務所という分布からいって、これは破格の扱いであった。島の大きさからいって、三つ分は引き受けてもらおうということなのだろうか。
 ランタオ島は大きいだけが取り柄で、ほとんど開発はなされていいない。山また山の、緑あふれる不毛の大地である。ろくな産物もなく、道路も整備されていない。水上警察や世界最大の野外仏を見物に来る物好きな観光客や、ハイキングが目的の学生、海の別荘を借りてバカンスを楽しむ会社員くらいが訪れるのみ。定住している者はほんの僅かだ。
 まさに、刑務所を建てるには理想の土地といえた。
 そのランタオ島が、空港整備計画でにわかに賑やかになった。空港ができれば、土地がにぎわう。それを見越して、まだ完成してもいない空港を目当てに、土産物屋を建てようとする輩も出てきた。
 事件は、その賑わいの中で、密かに進行していたのである。
「最初の犠牲者は、東区官房の三号棟から出ました」
 マイケルは、香港に来たのは初めてだという東方黒豹のため、地図を指しながら説明した。
「最初は何のこともない、ただの風邪だと思われました。その囚人は数日前から身体のだるさを訴えていました。発熱が三十八度であることを確認した刑務所付きの医師は、彼を病棟に収容し、解熱剤と頭痛薬を処方しました」
「だが、それは風邪ではなかった」
 警務處長は唸りながら呟いた。マイケルは頷いて、先を続けた。
「熱は下がらず、そのうち患者の身体には青い発疹が浮かび始めました。彼の意識は混乱し、次第に凶暴になっていきました。しかし当局は、患者が犯罪者であることから、事態を軽視していました。凶暴性は彼の、元々のものだと考えたのです。しかし私の調査によると、この患者は気の弱さから犯罪に荷担したほどの、まったくおとなしい人物であることがわかっています。つまり、凶暴性は病気によって引き起こされたものだったのです。そしてある日 ------ 」
 ごくり、とマイケルは唾を呑んだ。
「男は、怪物になりました」
「か……怪物ぅ?!」
 さすがの東方黒豹も、話の意外な成り行きに仰天した。目をまん丸にして地図から顔を上げる。アイアンはすでに事態の説明を受けているらしく、退屈そうにそっぽを向いていた。
「そう、怪物です」
マイケルは話を進めた。
「それは、青い怪物 ----- としか言いようのない生物でした。身体はどす黒い青色のかさぶたに覆われ、らんらんと目を光らせた怪物です。怪物は、人間とはとうてい思われぬような怪力を発し、本能のままに病棟を破壊しました。すぐに警備員が駆けつけ、取り押さえようとしましたが、怪物の動きは超人的で、捕捉することもできません。警備員だけで二人が死亡、十二人が重軽傷を負うという、たいへんな騒ぎになりました。ついには射撃隊が出動し、怪物を射殺することで、ようやく事態は収まったのですが……」
「何か問題でも? 怪物は倒せたわけでしょう?」
「その、たった一体の怪物を倒すために、何発の銃弾が必要だったと思いますか?」
 東方黒豹に向かって、マイケルは歪んだ笑みを浮かべた。
「数を述べることは無意味ですが、少なくとも象を頭を狙わずに拳銃で倒そうとするよりもたくさんの弾を受けて、怪物はなお活動し続けたことを述べれば十分でしょう。しかも銃撃隊は、頭にも何発かは命中させているのです。私も、解剖所見を見てゾッとしました。ハチの巣になっても動き続ける化け物。しかも、一体だけではないのです」
「え」
 東方黒豹が身を起こした。
「怪物は、まだいたんですか?」
 アイアンも驚いた顔になって、椅子から腰を上げた。
「俺はまた、人間が怪物に変化する原因を探ればいいのかと思ってましたよ」
「もちろん、それが君達の任務だ」
 警務處長は泣き笑いの表情を見せた。
「この病気 ----- もし病気だとしてだ、こいつは伝染性をもっているのだ。すでに東区刑務所だけで、六人の囚人が青い怪物になっておる。それだけではない。西区でも三人、そして今朝とうとう、南区でも怪物の発生が報告された」
「医療チームを作って、伝染病の解明に当たればいいじゃないですか」
 アイアンが正論を吐いた。
「世界中に公表して、英知を集めて解決すればいい。何もこんなふうに隠しだてして、医療の専門家でもない俺や、得体のしれないスーパーヒーローなんかに調査を命じることではないでしょう!」
 口調の激しさからいって、アイアン・李は任務を与えられてこの場に呼ばれたときからずっと、そう主張したかったようだった。確かにアイアンの言う通りである。世界で発生したあらゆる新種の伝染病は、そうやって研究されているではないか。
 だが、今回だけは特別なのだ。
「これを見たまえ」
 警務處長は一枚のFAX用紙を取り出した。
 子供が殴り書きしたような汚い字が、一面に書かれている。受け取ったアイアンは、苦労しながら文字を拾って読んだ。
「わが……元に集う、ことを……命ずる。香港の全ての……権益を我に渡せ。さもなくば……こりゃなんと読むんだ? ああ、"青き死"でいいのか。青き死を香港全土にもたらす ----- こりゃ、脅迫状じゃないですか!?」
アイアンは素っ頓狂な声を上げた。
 東方黒豹はといえば、事態をもっと性格に把握していた。
「つまり刑務所における人間の怪物化は、単なる伝染病ではなく、脅迫犯人の脅しか ----- もしくは実験だと考えるべきなんですね」
「そうだ。だからこそ、君達を呼んだのだ」
 警務處長はまた、部屋中を歩き回った。何もできないが、とにかく何かしていないとやりきれない、といった感じだった。東方黒豹はしばらくは真面目に、話している警務處長の方を見ていたが、そのうちに目眩がしてきたのか、やめてしまった。
「患者たちは、まさかこれ以上、射殺するわけにもいかないので、堅牢な独房の中へ隔離してあります。しかし、原因が何であるかということすら、特定できませんでした」
 犯人が病原菌をまいているのか、それとも別の方法で人間を怪物にしたのかも、わからない。何せ、病気自体の正体がはっきりしないのだ。
 それでも患者は増え続け、現地はパニックの度数を増している。しかも犯人は、この病気を香港中に流行らせると公言している。報道管制下に送られたFAXだけに、内容は真実と考えるしかなかった。
「このFAXは、香港総督のところへ密かに送られてきたもののコピーだ。続けて犯人は、具体的に香港の権力を自分に渡すための方法を指示してきた。まったく、恐ろしい悪人だ。FAXからの犯人の割り出しは、香港皇家警察の精鋭部隊が、すでに捜査を開始している。君達は」
 と、警務處長はアイアンと黒豹を見て。
「現地に赴いて、この悪魔の如き人物の、手掛かりなりと探し出して欲しい。君達が必要とするものは、何に限らず協力するように手配しておく。ランタオ島の警察署長にも、君達が行くと連絡しておいた。向こうでは唯一の希望の灯火とばかり、君達の到着を待っているだろう。と、ゆーわけでよろしく頼む!」
「ち……ちょっと待って下さいよ!」
 アイアンはひっくり返った。
「まさかこの、えせヒロイズムに固まった、海のものとも山のものともつかない若いのと一緒に仕事しろっておっしゃるんですか!?」
にこにこ笑って差し出された手を、ぱぁんとアイアンははたいて撥ねつけた。
「冗談じゃありませんよ! 處長、ねぇ聞いてるんですか!?」
「安心したまえ。専門家としてマイケルも同行させよう」
「ふえっ!?」
 今度はマイケルが奇声を上げてひっくり返る番だ。
「そんなのってありますか!? 私はくじ引きで負けたというだけであんな恐ろしい患者を調査する任務を引き受けて、命からがらようやく帰ってきたんですよ? それなのに、またあの島へでかけろっていうんですか!」
 最後の方は涙声になっていたが、誰も聞いていないのでは仕方ない。警務處長は夜逃げでもするかのような素早い足取りで、執務室から逃げ出していった。わき出る不満を押し込めようと思ってか、しっかり扉を閉めての逃走である。
 まあ、警務處長の気持ちも、わからないでもなかった。たまたま事件が刑務所で起こったというだけで、責任がどっしり背中にふりかかってきたのである。これがデパートで発生したり、学校で発生していたりしたら、香港警察はこんな事件に振り回されずにすんだのだ。
 だからといって、心労を下請けに出された人々が納得できるはずもなく。
 残された者たちは、己の不幸を重いながら、顔を見合わせるしかない。
 いや、一人だけ不幸な顔でないものがいた。
「……楽しそうだな、東方黒豹」
「パオと呼んでください。隣のおばさんも、そう呼びます」
 あっけらかんとしたものだ。
「さぁ、急ぎましょう。病気は蔓延している。解決は、早ければ早いほどいい。僕も、いずれ中国となる土地のために、全力を尽くしますよ」
「大きなお世話だ」
 といったのは、たぶんアイアン・李だっただろう。



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